第四十二話 ひとひらの花びら 3
放課後。 僕は例の場所、実習棟四階東側の非常階段扉前に来ていた。 古谷さんはまだ来ていない。 本当は古谷さんに声を掛けて一緒にこの場所へ来るつもりだったのだけれど、何やら三郎太と話し込んでいたから邪魔をするのも悪いと思い、僕だけ一足先にこの場所に辿り着いたという次第だ。
それにしても――と、僕はこの場所の閑散さを改めて思い知らされた。 以前の玲さん見たく、付近に誰かが居てしまっては僕らの話が筒抜けになってしまうから、僕は実習棟に人の気配が無いかを慎重に探りながらこの場所に来たけれど、その甲斐すらない程に人っ子一人見当たらなかった。 しかし念には念をと、この時間帯に居る筈はないであろうという事は分かり切っていた事だけれど、わざわざ施錠を解いてまで非常階段の踊り場も調べた。 もちろんそこに、玲さんの姿など無かった。
そうして周囲に誰も居ない事を認めてから数分後、一つの軽快な足音がこちらへ近づいてくるのを感じた。 恐らく古谷さんに違いない。
果たして足音の主は古谷さんだった。 僕より出発が遅れたのを気にしていたのか、若干駆け足でこちらに向かってきた。 ちょっと息が切れている。 ひょっとすると教室からここまで駆けてきたのかも知れない。 いかにも彼女らしい健気な心遣いだ。
「すいませんっ、遅れました」
「ううん、僕もついさっき来たところだから気にしないで」
何だか何処かで聞いた事のある恋人同士の待ち合わせ見たようなやり取りになってしまった。 いや、あながち間違いでもない。 古谷さんの持ち掛ける内容によっては今日この場で、僕と古谷さんは恋人同士となるのだから。
「それで、僕に話って何かな。 僕をここに呼び出したって事は、古谷さんにとって大事な話なんじゃないかなって思ってたんだけど」
古谷さんの息が整ったのを見計らい、僕は口火を切った。 ちょっと単刀直入過ぎたかという思いはあったけれど、この後に及んで回りくどいのも女々しいだろうという判断から、僕は古谷さんが話しやすいよう、先に話の場を作った。
「はい、その事なんですけど、もうこれ以上隠したくないので正直に言います」
隠したくない――正直に言う――僕への恋慕の情の事だろうか。 確かに古谷さんは僕の事を好いている筈だけれど、初めて古谷さんに告白された時以来、僕は彼女から直接的な『好き』という言葉を聞いた事は無かった。 しかし、古谷さんがその言葉を重んじるのも理解出来る。
古谷さんはあくまで僕の事を一方的に好いていて、僕が誰を好きになろうが構わない、でも私はあなたの事が好きだから、せめて好きでいさせて欲しいという想いを彼女は前提として持っている。 故に彼女がこれまで軽々しくその言葉を口にしなかったのにも十分納得が行く。
その辺りの事情を元に先の言葉を解釈すると、『僕の事を好き』だという気持ちを隠していたと言えば隠していたという事になるのだろうけれど、ちょっと違和感を覚えてしまうような言い回しだ。
――何だろう。 この、僕の胸底から滔々と溢れてくる謂れのない不安は。 僕はすっかり、古谷さんの次の言葉を聞くのを恐れていた。
「隠したくない、って?」けれど、聞かない訳にはいかない。
「それは――」と古谷さんは何かを言いかけたかと思うと、それ以上言葉を続ける事もなく俯いて、口を噤んだ。 その態度はまるで、親に悪戯について問い質されながらも咎められる事を恐れて真実を隠蔽しようとしている幼子のようで、決して僕に対する好意を口にするのを言い渋っているというような、しおらしい態度ではなかった。
実習棟の静謐が、僕の耳を鳴らしている。 今なら関節の軋みまではっきりと聞こえてきそうだ。 古谷さんは俯いたまま黙し続けている。 彼女が沈黙を続ける間、僕の不安は溢れる事すら厭わずに、沸き続けるのを止めようとしない。 いっそこのまま古谷さんが口を開かなければいいとさえ思った。
あの口が開いたが最後、彼女の口から放たれる火の粉は僕の溢れんばかりの不安を引火させ、大炎上を引き起こすだろう。 最早、いつ起爆するやも定かではない時限式の爆弾が起爆するのを目の前でじっと眺めさせられているかのようでもある。 僕の放課後までに拵えた心構えは、既に見る影も無く崩れ去っていた。
それから、数十秒か、数分か、永い永い沈黙が過ぎ去った頃、古谷さんはいよいよ俯かせていた顔を上げて、僕を見つめてきた。 その顔つきは観念や諦めというよりは覚悟というに相応しく、その瞳はやはり彼女特有のただただ真っすぐな、あの瞳だった。
「――ユキくん、私、今、三郎太くんと付き合ってるんです」
永らくの沈黙で、耳がやられてしまったのかと思った。 僕を驚かせる為の古谷さん渾身の冗談かと疑った。 実は古谷さんの呼び出しは僕へのドッキリで、このあと僕が驚いたのを見計らってどこかで息を潜ませていた三郎太や竜之介や平塚さんが現れて、僕の驚いて間の抜けた顔をけらけらと笑い飛ばしてくるのだろうと信じた。
けれど、それはきっと、僕の願望だったのだろう。
僕の耳は正常で、彼女の言葉も真実で、三郎太たちが僕の顔を笑いにくる事もない。 僕の目の前で起こっているこれは紛う事無き事実であり、それを耳のせいだのドッキリだのと疑ってしまったのは、僕がその事実の一切を微塵たりとも認めたくなかったからに違いない。




