第四十一話 献身の代償 12
「否定もしないという事は、それを認めるという事でいいんですね」
「……」
僕の追求から逃れる事を諦めたのか、玲さんは俯いたままわずかに首肯を果たした。 十中八九そうであろうという事は荒井先生との対談を経て分かり切っていた事だけれども、それでも万が一にその推測が間違いであれば玲さんに警戒されてそれ以上の事を聞き出せなくなってしまうという懸念もあったから、彼女がその事実を肯ってくれたのは以降の僕にとって大きなアドバンテージとなるだろう。
――それにしても、これほどまでに弱々しい玲さんを見たのは初めてだ。 いつもの覇気はそこに無く、まるで別人とさえ思えてくる。 これまでは、僕が粗相を犯してばつの悪い思いをしながら俯き、玲さんからのお小言を頂戴するのが常であったのに、今の状況はまったくの真逆だ。 別に僕は玲さんを咎めている訳ではないのだけれども、ここまで意気阻喪としている玲さんをまさしく目の当たりにしていると、却って僕の方が気が咎めてしまいそうだ。
しかし僕はもう既に、玲さんの不可侵領域に足を踏み入れてしまった。 今ならまだ、引き返せるかもしれない。 けれど、引き返して何になる。 これだけ踏み込んでおいて逃げ出すのは、玲さんを見捨てるも同然の行為だ。 だから僕は、見つけなければならない。 この果てしなき五里霧中のどこかに膝を抱えて助けを待っているであろう、弱き玲さんを。
「わかりました。 それを踏まえた上で玲さんに聞きます。 あの発言に関与しているのは、中学時代に玲さんの友達だった、内海理央という女子生徒ですか」
「――!」僕の口から内海理央という名を発した直後、玲さんは永らく俯けていた顔をがばと上げ、目を見開きながら僕の顔をじっと見つめてきた。 その顔からは、悲哀というべきか、悔恨とも言うべきか、あるいは、憤慨とも捉えられるような複雑な表情を覗かせていた。 それから間もなく「誰から、聞いたの?」と、おもむろに口を開いた玲さんが僕にそう問い質した。 その声色はどこか震えているようにも受け取れる。
「荒井先生からです」今更隠しても仕様が無いのは分かっていたから、僕は素直に情報源を明らかにした。 すると玲さんは「全部、聞いたの?」と先の調子と同じくして僕に問い質してくる。
「いえ、僕が先生から教えてもらったのは、その人の名前だけです」と僕が語ると、玲さんは「そっか」と一言だけ呟いた後、少しだけ顔を俯かせた。 その顔には、微かに安堵の色が混じっていた。
「すいません、玲さんの過去を勝手に嗅ぎ回るような真似をしちゃって」
少し間を置いてから、僕は玲さんの与り知らないところで彼女の過去を暴こうとしていた事に対する軽率を詫びた。
玲さんは僕の言葉を聞いた後もしばし黙していて、それから俯いたままかぶりを振った後、「ううん、君にそうさせてしまったのも、私があんな事を言っちゃったせいだから」と弱々しい口吻で呟いた。 てっきりその行為については咎められて然るべきだと予め覚悟していたから、玲さんがかぶりを振った上でその行為を肯った時には僕も動揺を禁じえず、僕はうんともすんとも言えず、ただただ口を噤んでいた。
そうしてまた、僕と玲さんの間には沈黙が流れ始めた。 正直なところ、これほどまでに玲さんが消沈するとはこれっぽっちも考えておらず、まるで予想だにしない事態を前に僕は、これからどういった風に話をつけていくべきか、まったく思い浮かべずにいた。
当初は激怒される覚悟で玲さんとの対談に臨んでいただけに、綱引きで同等かそれ以上の張力を掛けてくるものかと予測して、開始の合図と共に力任せに綱を引っ張るや否や相手がまったく綱を引かず、そのままの勢いで後方に倒れて尻餅を付かされたかの如きの肩透かしというか、一人相撲というか、暖簾に腕押し、柳に風。 そうした虚無感すら僕は覚え始めてしまっていた。
こうした事態に陥ってしまうくらいならば、まだ玲さんが激怒してくれていた方が幾分話を通しやすかったとさえ思えてくる。 ひょっとすると僕は、決して踏み込んではいけない玲さんの領域に足を突っ込んでしまったのかもしれない。
生唾がごくりと喉を鳴らした。 玲さんは未だ俯いたまま押し黙っている。 空気が重い。 やはり、軽率だったろうか。 情報不足だったろうか。 そうした後悔の波に押し寄せられるがまま沖合に投げ出された僕は完全に陸へ戻る術を失ってしまった。 苦し紛れに菓子鉢の中に入れられてある菓子の個数を数えてみる――数え終えた頃にはより焦燥が募るだけだった。
そうして、数分にも及ぶ沈黙の重圧に押し潰されそうになっていた僕の耳に飛び込んできたのは、「――君は、何も知らなくていいよ」という玲さんの言葉だった。 その言葉がまるで、これ以上詮索してくれるなという意味にも聞こえてしまった僕は「知らなくていい、って?」と恐る恐る玲さんに訊ねた。
「何となくだけど、君がいつもの一時的な好奇心に唆されて昔の私を探ってたんじゃなくて、私の力になろうとして動いてくれていた事は分かるよ。 でも、これは私の問題であって、君に直接関わる事じゃあない。 君にそこまでしてもらう義理はないんだよ。 だからもう、あの時の言葉はきれいさっぱり忘れて、私の事は放っておいて」
「――っ」
少し、頭に来た。 放っておいてくれ? 僕の過去は知ろうとしてきたくせに自分の過去は韜晦するなんて、あまりにも虫が良すぎる。 玲さんが気丈な人だという事は嫌というほど心得ているし、だからこそ第三者に――とりわけ僕などには弱きを呈したくないという気持ちも痛いほど分かる。
けれど、それとこれとは話が別だ。 こんな時に強情になってどうする。 それは気丈でも何でもない。 ただのわがままだ。 ただの強がりだ。 ただの痩せ我慢だ。 もう、相手が先輩だとか、僕の恩人だとかは関係ない。 僕の目の前であからさまに弱り果てている一人の人間が居る――理由はそれだけで十分だった。 それだけで僕は、心と体を動かす事が出来る。




