第四十一話 献身の代償 11
荒井先生との対談から翌日の放課後、僕は玲さんの自宅へと向かっていた。 彼女の自宅へお邪魔する話を付けたのは昼休みの時間で、僕がSNSを通じて[今日の放課後に玲さんの家へお邪魔してもいいですか。ちょっとお話したい事があるんです]という旨を伝えると、玲さんは[うん、いいよ。]と断る素振りも見せずに僕の訪問を快諾してくれた。 今日か明日を逃せば玲さんと話す機会は来週に持ち越しとなっていたから、今日という日に玲さんの都合が付いてくれてひとまず安堵した。
「玲さん、いますか」
そうして僕は玲さんの自宅に辿り着き、玄関を開いて彼女を呼んだ。 玲さんの自宅に立ち寄ったのは五ヶ月前の二学期の終業式以来で、土間に入るなり鼻腔を掠めたこの家特有の生活感のある匂いが、僕にどことなく懐かしみを覚えさせた。
『あ、来たんだね。 上がって来なよー』
間もなく二階から、僕の呼び声に反応した玲さんの声が聞こえてくる。 僕はその声に導かれるよう、玄関先から二階の部屋に向かった。
「どうも、お邪魔します」
戸を数回ノックしたあと、僕は玲さんの居る部屋の引き戸を開いた。 そこにはいつもの位置に横座りしていた玲さんの姿があった。 服装は制服のままで、僕の姿を見るなり少しだけ白い歯を覗かせて微笑した。
「いらっしゃい。 君の連絡がいきなりだったからあり合わせのお菓子しか用意出来なかったけど、これで我慢してね」
僕は玲さんの斜め前に腰を下ろしながらテーブルの菓子鉢に目をやった。 その中には包みに包まれた小さなチョコレートだったりおかきだったりが入っていたけれど、どれも種類にばらつきがあって、なるほど玲さんがあり合わせという言葉を使ったのも納得が行く。 それでも玲さんが僕を持て成す為に用意してくれた菓子なのだから、それにケチをつけるなどという気はさらさら無かった。 だから僕は、
「我慢だなんて。 僕の方こそ急にお邪魔しちゃったんですから、それを思えば十分過ぎる待遇ですよ」と玲さんの持て成しに対する感謝を述べた。
それから僕たちは各自お菓子をつまみつつ、しばらく近況を報告し合った。 当初は適当に挨拶を交わした直後に例の件について問い質そうと思っていたけれど、僕の話す内容が内容であるから多少なりとも場が解れていた方が幾何かでも話が通りやすくなるだろうし、しばらくは玲さんのペースに合わせておいた方が後の行動が起こしやすいと考えた僕は、今の話が一段落付いた頃に例の件を話そうと決めた。
「――でさ、私がさんざん勉強教えてあげたのに双葉のやつったらこの前の期末でどんな点数取ってたと思う?」
それにしても、今日の玲さんはいやに饒舌だ。 別に玲さんの饒舌っぷりは今に始まった事じゃあないのだけれど、何故だろうか僕には、今日の玲さんが取り留めのない話題を続けて本題から話を反らし続けているようにしか見えない。 ひょっとすると玲さんは、僕が玲さんの自宅に訪問してまで話さんとしている内容について、既に目星を付けているのだろうか。
「双葉って特に歴史が苦手でさ、平均点は七十点超えてたのにあの子ったら――」
「玲さん」
「え? あぁ、うん。 どうしたの?」
僕が途中で玲さんの会話を遮ると、彼女はちょっと慌てた様子で僕の呼びかけに反応した。 普段の玲さんならもっと余裕を持って対応していたはずだけれど、今の彼女からは余裕というものは一切窺えない。 となるとやはり玲さんは僕の話さんとする内容から逃げていたと捉えて差支えないだろう。
「話の途中で悪いんですけど、そろそろ僕の話、聞いてもらってもいいですか」
僕は真っすぐ玲さんの顔を見据えた。
「あ……うん。 そうだね、私ばっかり喋っちゃって、ごめん」
玲さんは俯いて目線を下げた。
「いえ。 それで、不躾だという事は分かっています。 それを分かった上で、玲さんに聞きたい事があるんです」
「……」玲さんは顔を俯かせたまま何も言わなかった。
「僕が聞きたい事、それは文化祭の打ち上げの日、玲さんが僕に言ったあの言葉についてです」
「……いずれは君に、聞かれると思ってたよ」
果たして玲さんは、あの言葉について僕から問い質されるであろう事を以前から予覚していたと諦観の気味に白状した。 玲さんのいかにもな消沈の状態を見かねた僕は、このまま続けざまに話すよりは少し間を置いた方が良いと判断し、暫し口を噤んでいた。 もちろんその間、玲さんの方も何も言わなかった。 部屋の掛け時計の秒針の音だけが、僕たちの間を流れている時間の経過を規則的に告げていた。
「急にあんな事言われても、君を戸惑わせちゃうだけだったよね」
意外にも、沈黙を破ってきたのは玲さんだった。 顔は俯けたままに、玲さんは弱々しい声色でそう呟いた。
「確かに、僕が男にならなくても良いんじゃないかっていう発言と共に驚きはしました。 でも玲さんも、何かしらの意図があってあんな事を僕に言ったんですよね」
「……」玲さんに反応は無かった。
「僕が男にならなくても良いっていう発言については未だにその意図が想像もつかないですけど、もう一つの発言については、玲さんの中学時代に関係があるんじゃないですか」
「……っ」テーブルの上に乗せていた玲さんの手が、ぴくりと動いた。 それから、微かに上唇を下唇に被せるような仕草を見せたところを見るに、やはりあの発言には玲さんの過去が深く関連しているようだ。 荒井先生との対談の内容と普段の玲さんとはかけ離れたあからさまな態度の変化を照合しても、最早その事実は明らかだ。 ならばここはもう、恐れずに進むしかない。




