第四十一話 献身の代償 10
荒井先生はしばらく黙していた。 それから耳鳴りが聞こえてきそうなほど辺りがしんと静まり返って間もなく、固く閉じていた先生の口がおもむろに開き、神妙な目つきで僕を見据えた。
「あの子の力になりたいっていう綾瀬くんの思いは伝わったよ。 でもやっぱり私は先生として、自分の受け持った生徒の辛い過去を話す訳にはいかないんだ」
荒井先生は、玲さんの過去は話せないときっぱり答えた。 心のどこかで、そうした答えが返ってくるんじゃないかと薄々思ってはいたけれど、いざそれが現実のものとなるとやはり精神に応える。 けれど荒井先生は一人の先生として、そして一人の人間として、玲さんの過去を秘匿した。 何の憚りも無く他人の過去を探ろうとしている愚かな僕とは大違いだ。 さすが生徒指導を受け持っているだけの事はある――などという、玲さんの過去を知れなかった事に対する悔しさにも似た感情と荒井先生に対する尊敬の念が複雑に絡み合って僕の心に纏綿し、僕の気持ちはまったく静止させられてしまった。
「……そう、ですよね。 わかりました。 無理を言ってすみませんでした」
僕は消沈を隠す事も無く先生の言葉に答えた。
「ううん、私の方こそ何の力にもなれなくてごめんなさい」
先生は先生で面目ないと言った気味に僕へ謝罪を果たしてきた。
「いえ、元々の僕のお願いが無茶でしたからお気になさらず。 それじゃあ、わざわざ僕の話を聞いてくれてありがとうございました。 僕はこれで」
先生からの謝罪は今すぐにでも強引に突き返したいところだったけれど、それをしてしまっては謝罪の応酬でせっかく纏まりかけた話が拗れてしまいそうだったから、荒井先生の謝罪が不要だという事を最低限伝えつつ、多忙であろう先生の貴重な時間を費やして僕の話を聞いてくれていた事に対する感謝の意を会釈と共に伝えた後、僕は先生に背を向けて階段を降り始めた――
「――内海、理央」
階段の中腹に差し掛かった頃、僕の後方から荒井先生の誰かの名を呼ぶ声が耳に聞こえてきた。 僕はその名を耳にしたと共にその場で先生の方を振り返った。 先生は決意めいたような相好で僕をじっと見つめていた。
「内海理央。 その子は中学時代、坂井さんの友達の中で一番仲が良かった女の子。 その子の名前を出せば坂井さんも何かしらの反応を見せてくれるかもしれない」
先生は淡々と、先に口にした内海理央という女生徒と玲さんとの関係を簡潔に僕へと伝えた。 しかし、
「どうして、そんな事を教えてくれたんですか」
あれほど玲さんの過去を頑なに秘匿しようとしていた荒井先生が、何故僕がこの場を去ろうとする直前にそうした重要な情報を伝えてきたのかがまったく理解出来なかった。 だから僕は荒井先生の心境の変化の理由を知りたかった。
「どうしてだろうね。 でも、何となくだけど、あの子がそこまで心を開いている綾瀬くんなら、私よりはよっぽどあの子の力になれると思ったの。 ――これ以上の事は言えないし、こんなのは私の勝手な押し付けになっちゃうけど、もし君が本当にあの子の事を想っているのなら、あの子の力になってあげて。 でも、これだけは約束して欲しいの。 もしそれでもあの子が昔の事を話したくないって言ったらそれ以上無理に聞こうとせず、その思いを尊重してあげて」
先生はそれ以降、何も喋らなかった。 それを見かねた僕は「分かりました。 ありがとうございます荒井先生」とだけ簡単に伝え、会釈してからその場を去った。
今回ばかりは路頭に迷う事を覚悟していたけれど、土壇場で先生が重要な情報を教えてくれたお陰でまた一歩、玲さんの過去に近づいた。 ただ、ここから先、僕の取る行動は一つしか残っていない。 それはすなわち、双葉さんや荒井先生から収集した玲さんの過去に関する情報を携えて、玲さん本人に彼女の過去及びあの発言の真意を聞き質さなければならないという事。
しかしここまで来ればもう遠回りをする必要も無い。 その情報を元として玲さんに過去を訊ねる事によって彼女がどういった態度を示してくるのかは僕にはまったく想像もつかないけれど、ここまで来て後ずさりしてしまっていては僕の男の名が廃る。 思い立ったが吉日。 善は急げ。 都合さえ付けば明日にでも僕は玲さんと話を付けようと思う。
その決意を拵えて間もなく、覚えず胸が高鳴った。 その高鳴りには多少の緊張由来も含まれていたけれど、主たる要因は恐らく、玲さんに恩返しを出来るという嬉しさから来たものだろう――いや、だろうなどとは気持ちが弱い。 そうに違いないと断定する方が実に男らしい。
――そうとも、そうに決まっている。 ようように男の容を手に入れた僕が、玲さんの抱えている過去の闇を取っ払い、そして僕の方から古谷さんに告白する。 僕にとってこれほど幸いなシナリオは無い。
そうだ、今の僕にはそれだけの為事をこなせる力がある。 何も恐れる事はない。 今日一日は鋭気を養い、明日、玲さんに話を持ち掛けよう。 恐らくそれなりに込み入った話になるだろうから、学校で話すのは良くない。 玲さんの許可さえ取れれば、彼女の自宅にお邪魔してしっかり腰を据えて話そう。
足で地を踏む度に溢れてくる活力は、僕に後退という二文字をまるで考えさせなかった。




