第四十一話 献身の代償 9
「――なるほどねぇ。 何でわざわざ綾瀬くんを呼び出してまでそんな事を聞きたかったのかは分からないけど、あの子って面倒見が良いから下手に首突っ込んじゃった以上、綾瀬くんの力にならなきゃいけないって思っちゃったんでしょうね」
僕と玲さんの関係性を知った後、荒井先生は多少の怪訝さを残しつつも大方僕の話を飲み込んでくれたようで、表情に柔らかさが戻ってきたのが窺えた――
「それで君は、私からあの子の何を知ろうとしてるの?」
――かと思うと先生はまた真顔に戻り、僕に核心的な問いを掛けてきた。 過去に自分の受け持ったいち生徒に対しここまでの感情の変化を露呈させる荒井先生はやはり、玲さんの過去についての重要な何かを知っているように思われる。 そこまで分かれば、先生が玲さんの過去を話す話さないはさておき、僕の知りたい事を素直に言ってしまった方が話は早いだろう。 これ以上小細工などを弄するのは却って話頭を乱すだけだ。
「……僕が先生に聞きたいのは、坂井さんの中学時代についてなんです」
そうしていよいよ僕は自ら核心へと迫った。 すると荒井先生はおもむろに目を伏せ、あからさまに僕から視線を逸らした後、
「その人の知らないところでその人の過去を探ろうとするのは、あまり褒められた事じゃあ無いと思うよ」
先生として――いや、人として当然の倫理観を以って、僕の玲さんの過去を知ろうとする行為を窘めた。 正直なところ、それを言われてしまったら僕はもう何も言えなくなってしまう。 何故なら、僕がやろうとしている事はどれだけ詭弁を宣おうとも、まるで迂拙でまったく愚昧でどうしようもなく愚蒙だからだ。
けれども僕はこの上ない先生からの正論に口を縫われたとしても、出血すら厭わずにその糸を抜き去り、僕の意図を明確に伝えなければならない。 荒井先生が玲さんの曇った過去を知っているであろう事はもはや明々白々。 ここは一歩引くよりもあえて前進した方が僕の我武者羅さが伝わるはずだ。
それでもなお荒井先生が玲さんの過去について語ろうとしないのであれば素直に諦めるしかない。 何も聞き出せなかったその時は直接、玲さんに問い質そうと思う。 荒井先生に無理強いし続けて迷惑を掛けてしまうより本人に問い質した方がよほど合理的だろう。 ――そうした、いわゆる当たって砕けろの精神を胸中に拵えた僕はごくりと生唾を飲み込んだ後、荒井先生の目を真摯に見据えた。
「それは、分かってます。 でも僕は、これまで僕の力になり続けてくれた玲さんに少しでも恩返しがしたいんです」
「あの子の昔を知る事と、あの子に対する恩返しがどう結びつくのか、私にはちょっと分からないんだけど」と、先生はちょっと困惑したような口吻で言った。 その言葉を聞いた僕は、前のめりだった気持ちを正された。
先生の言う事はご尤もだ。 特定の誰かに恩返しをする為にその人の過去を知らなければならない、だからその人の過去を教えてくれ。 などと突拍子も無く言われたところで、何故恩返しをするのにその人の過去を知る必要があるのだと訝しまれてしまうのも無理はない。
事前にその件について説明を果たさなかったのはまったく僕の落ち度だ。 それを話さなければきっと先生はこれ以上僕の発言に耳を傾けてはくれなくなるだろう。 けれども、言っていいものなのだろうか。 玲さんの、あの言葉を。
"……私にはもう、誰かを好きになる資格も、好かれる資格も無いんだよ"
玲さんのその言葉を聞いたから、聞いてしまったからこそ僕は、彼女の過去を知った上で彼女の力になりたいと願った。 でもその願いはきっと第三者の目には行き過ぎたお節介に映ってしまう事だろう。 別に玲さんの過去を知らなくとも、別のやり方で彼女の抱え続けている不安や悩みを和らげる事は出来るはずだから。
それこそ、僕以上に玲さんについて知っているであろう荒井先生に、これこれこういう事があって玲さんが過去に起きた何かしらの出来事に苛まれているという事実を余すことなく伝え、玲さんの力になるという役目を担ってもらうのも一つの手なのかもしれない。
でも僕は決してその妥協を許さなかった。 何としてでも僕の手で玲さんを救いたいと思っている。 それだけ信念を持って行動しているのだから、何か他に変えられない理由があるのだろうと思われるかも知れないけれど、僕の胸中にはそうした高尚な理由など微塵たりとも備わっていなかった。
その実、僕にさえ思い上がりも甚だしい謎の献身の出所が判明出来ずにいて、分かっている事があるとすれば、過去の呪縛から玲さんを救ってあげたいというただ一つの単純な想いが僕の胸の奥底で熱く熱く燃え滾っているという事だけだった。 だから僕は、玲さんの自身に対する呵責の解決を荒井先生に委ねるという選択肢を頭の中から除外した。
その上で僕は「……実は、文化祭が終わった後に――」と話を始めて、僕が今の行動を起こすきっかけとなった玲さんのあの言葉を荒井先生に伝えた。 双葉さんや他の生徒ならば僕も言い渋ったろうけれども、中学時代の玲さんを知っている荒井先生ならば不必要にその事について誰彼構わず言いふらす事も無く自分の中に留めてくれるだろうし、ことによるとその発言を知った事がきっかけで先生の心境に変化が現れるかもしれないから、僕はその一縷の望みに賭けたのだ。
「……本当にあの子が、君にそんな事を言ったの?」
僕の性質に関する情報を除く、あの日の玲さんとの一連の会話を語り終えた後、荒井先生は戸惑いと狼狽えの混じったような表情を覗かせながら僕にそう訊ねてきた。 この短時間の間で僕が何度か目にした荒井先生の困惑、混迷とは比べものにならないほどの動揺を見せている事から、やはりあの言葉には玲さんの呵責に関する根源的な何かが含まれていたに違いない。
「はい。 僕もその言葉を聞いた時には耳を疑いました。 頼り甲斐があって、いつでも明るいあの坂井さんが僕にそんな弱気を見せてくるなんて信じられませんでしたから。 でも、僕にその弱気を見せたという事は、もしかしたら坂井さんは僕に救いを求めていたんじゃないかって思ったんです。 それで、もし坂井さんにあんな事を言わせた原因を知る事が出来れば、少しでもあの人の力になれるかもしれないから、坂井さんの中学時代を知っている荒井先生に無理を言って、今こうして坂井さんの過去について教えてもらおうとしてるんです」
曲がりなりにも、これで筋は通した。 これで僕の思いが荒井先生に受け入れられなければ後はもう何をしようとも、どれだけ駄々を捏ねようとも、先生は僕に何も教えてはくれないだろう。 僕は固唾を呑みながら荒井先生の出方を待った。




