第四十一話 献身の代償 7
「――荒井先生、ちょっといいですか」
僕は長机を隔てた先で生徒会の人たちと話をしていた荒井先生のそばに近寄り、ちょうど先生が会話をやめた頃を見計らって声を掛けた。
「ん、どうしたの綾瀬くん」先生は柔らかな口調で僕に対応した。 生徒会の人たちはそのまま会話を続けている。 下手に先生に話しかけてしまうと彼らにも注目されるかも知れないと懸念していたけれど、僕にとってこの状況はこの上ない好都合だ。
「ちょっと、お話したい事があるんですけど」
「うん、何かな?」
荒井先生の受け答えを読み取るに、どうやら先生は僕の話をこの場で聞こうとしているらしかった。 むしろここまでは想定通りだ。 わざわざ先生の方から気を利かせて教室を出ようなんて事を促してくれるとは端から思ってはいない。 だから僕は、
「あの、ここじゃ言いにくい事なんですが」と、いかにもな思わせぶりの態度を先生に呈した。
「……? ――そっか、分かった。 じゃあ外で話そうか」
先の僕の態度から、この場で話す事の出来ない内容であろう事を悟ってくれたのか、荒井先生は当初はてなと首を傾げていたけれど、たちまち機転を利かせて外へ出ようと僕に促してくれた。
それから荒井先生は「みんな、先生ちょっとだけ離れるけど大丈夫だよね?」と生徒会の人たちに訊ねた。 すると生徒会の一人の女子役員が「大丈夫なんじゃないですか? むしろ先生はすーぐ新聞の内容にケチつけてくるから居てくれない方が進行早いんですけどねー」とおちゃらけの気味に答えた。
「こら、ケチって言い方はないでしょ! 生徒に読ませるものなんだから先生がその内容を添削するのは当たり前でしょう。 まぁ、すぐ戻ってくるとは思うから、あとでしっかり読ませてもらうからね」
「はーい」どこか力の入りきらない生返事をした生徒会の人たちの反応をやれやれと眺めた後「それじゃ外出ようか」という先生からの催促により僕と先生は生徒会室を後にし、同階層の西昇降階段前に移動した。
僕らの移動した西昇降階段は利便性の関係上、同じ昇降手段の中央昇降階段と比べると利用する生徒が少なく、ことに放課後から三十分以上経過した現今の時間帯ならば人通りは無いに等しく、あくまで自然を装いつつ誰かしらと対話するにはうってつけの場所だった。
そうした配慮から荒井先生がこの場所を選んでくれたのかは定かではないけれど、特定多数の生徒や先生がそこかしこと往来する学校という空間の中、比較的人目に付きにくい場所で先生と二人きりになれたのは僥倖というほか無かった。
「それで綾瀬くん、私に話っていうのは? さっきえらく深刻な顔してたけど」と口火を切ったのは荒井先生だった。 しかし、荒井先生に訊ねなければならない事柄は既に胸中に認めているけれど、きっと今回は双葉さんの時見たく、そう易々と玲さんの話はしてくれないだろう。
双葉さんの時は、双葉さんと玲さんが友達同士で、かつその二人と僕を含めた三人が知り合いだったからこそあそこまで憚りなく玲さんの過去について訊ねられたけれど、今回の相手は先生。 僕や玲さんと面識があるとは言え、立場上は先生と生徒。 加えて玲さんの中学時代を知っているであろうといえども、先生という立場として、いち生徒の過去をおいそれと他の人間に話す訳にはいかないだろう。
その内容が柔道家時代の竜之介見たような過去の輝かしい栄光ならばともかく、玲さんの抱えている過去は恐らくそうした部類のものでない事は確かだ。 なればこそ尚更荒井先生は玲さんの中学時代について多くを語ってはくれないに違いない。 場合によっては話をはぐらかされて只の一つの話も聞けない可能性だってある。 ――以上の懸念の数々から、ここは初っ端の出方が重要だと悟った僕は、
「いえ、そこまで深刻な話では無くて、でも先生からすれば何で僕がそんな事を聞くんだって思うかもしれないんですけど、荒井先生って中学の先生をしてた事があるんですか」
出し抜けに玲さんの過去について訊ねるのではなく、まず双葉さんの証言をもとに、荒井先生が中学校の先生をしていたという事実の真偽を探りにかかった。
「え? そんな事良く知ってたね綾瀬くん。 確かに私は去年この高校に赴任してきて、それまでは私立の中学校の方で先生をやってたんだ」
先生はちょっと目を丸くしつつ僕の問いに答えた。 別に疑っていた訳ではないけれども、どうやら双葉さんの話は本当だったようだ。 ならば、まずこの話題を掘り下げながら話を進めて頃合いを見つつ、なるだけ違和感を覚えられないよう先生と玲さんとの関係を探っていこうと考えた。
「なるほど。 でも、中学から高校の先生に変われるものなんですか? 先生が中学校の先生をしてたって人伝に聞いてから、ちょっと気になってたんです」
「うん、その辺の異動についての制限は無くて、変わろうと思えば変われるんだ。 けど、中学から高校への異動の場合は結構倍率が高くて、数百人が高校異動を希望しても実際に採用されるのは数人とかだから、私もこの高校の先生として採用されたのは正直運が良かったんだ」
これまで僕はてっきり、中学校の先生は中学校の先生のみ、高校の先生は高校の先生のみを担当するという思い込みがあったから、荒井先生見たく中学から高校の先生に異動出来るのだという事実を知った時には覚えず数度首肯してしまった。




