第四十一話 献身の代償 2
ただ、玲さんがその念に纏わりつかれた時期は、十中八九僕と知り合う以前だろう。 あまり考えたくはない事だけれど、この推測に真実味を帯びさせるには、僕と知り合う前の玲さんの素行がすこぶる悪く、その件を経て現在の人となりを形成したと考えるのが妥当なのだろうけれど、それでもやはり僕は、彼女が第三者にそうした愚劣極まりない行為をするような人間だとは到底思えない。
だから、この推測も的外れだという事を僕の思考に認めさせる為、僕はこれまでに玲さんが少なからず僕に語ったであろう玲さんの過去の話を脳裏に思い起こし、僕と出会う以前の彼女の人となりを導き出そうとした。
目を瞑って数分思考を巡らせた後――僕は、はっと目を見開いた。 僕は、玲さんの過去の話を何一つ知らなかったのだ。 なるほどあくる日もあくる日も懲りずにあの言葉の真意について咀嚼し続けたところで一向に只の一つの味も出ない訳だ。
現在の玲さんの性質を元に、彼女が過去に体験して纏わりついたであろう劣等感なり罪悪感なりの真意を読み解こうとしたところで、出てくる答えというものは僕が彼女と知り合ってからの半年間という短日月の間に形成された表面上の薄っぺらな答えに過ぎず、 その実僕は玲さんという人となりの全貌を未だ把握し切れていなかったのだ。 ゆえに、今の僕に玲さんのあの言葉の真意を読み解く力は無いという事。 だからと言って僕は、その無理難題を諦めるつもりはさらさら無かった。
答えを読み解く力が無いから匙を投げる、というのはあまりにも早計が過ぎる。 理解不能な記号や数式がずらりと並ぶ数学だって、初見は誰でも嫌気がさすものだけれど、それを解く為の公式さえ理解出来れば何の事は無い、多少の時間は掛かれどいずれは答えに辿り着く。 読み解く力が無いのなら、それを読み解くだけの力を蓄えれば良い。 その方式は数学だろうが人間関係だろうが同じ事。 僕はこれまで、玲さんという人の事を知らなさ過ぎた。
何故玲さんはあの場面で僕に弱きを呈したのか。 玲さんの過去を読み解けば、それさえも手に取るように分かる筈だ。 そうしなくとも、それくらいの事ならばある程度の察しは付く。
人が誰かに弱きを呈する時というのは、自身の不幸な境遇を利用して第三者から同情を得ようとする時と、自分自身が窮地に立たされてどうしようも無くなった挙句、誰かに救いを求めようとしている時だ。
そして玲さんは前者見たような浅ましい行動をする人では無く、だとするとあの時の玲さんは僕に救いを求めていたというのだろうか。 ひょっとすると玲さんはあの言葉の根源に苛まれているという事実を僕に伝えたかったのではなかろうか。 もしそうだとしたら玲さんは何故あの場面で僕に救いを求めてきたのだろうか。 救いを求めたのがなぜ、僕だったのだろうか。 僕の行き過ぎた思い違いや自惚れならそれでいい。 けれど、玲さんが本当に救いを求めているというのならば、僕はその救難信号を見逃すなどという薄情な事は出来ない。
これまで僕がどれだけ玲さんに救われてきたと思っている。 その恩を忘れて彼女を見捨ててしまったら、僕は今日以降、男を名乗る事は出来ないだろう。 何、玲さんにはめっぽうお節介を焼かれたのだから、たまには僕の方から節介を焼きに行くのも悪くは無いだろう。
古谷さんへの告白の日取りも近々決めておかなければならないと思ってはいたけれど、こんな心持のまま彼女に告白を迫っても身が入らない事は目に見えている。 だからこそ、今はそちらより玲さんの救難信号を優先すべきだろう。 古谷さんの僕に対する好意は揺るがないのだから、多少前後しても問題は無いはずだ。
そして恐らく玲さんは、僕が差し出した手を拒むだろう。 その時はいつぞやの玲さんよろしく「こんな時にそんな意地を張っている場合じゃないでしょう」と諫めてやろう。 一度で駄目ならまた一度、二度でも駄目ならもう一度、それでも駄目なら何度でも、玲さんに食らいついてやろう。 僕のしつこいのは彼女も良く知り得ている筈。 口は負けても我慢比べなら僕の方が上だ。
――ようやく方針が固まった。 同時に身体全体に活力が漲るような感覚を得た。 人知れず握った拳は間もなく熱を帯び始める。 僕の中の献身の血が騒ぎ始めているのが手に取るように分かる。 今ならば、白みに白んだあの空さえも澄んだ青空に変えられる――そうした訳も分からぬ全能感さえあった。
ともあれ今の僕は無知も同然。 冬天を青空に変えられたとしても、出し抜けに青空に変えられてしまった冬天の気持ちまでは分からない。 まずは彼女を掘り下げる事が先決だ。 となれば、まず僕の頼るべき人物は――あの人以外にいない。




