第四十話 努力の果てに 10
「でも、君が男の容を完成させたって聞いた今だからこそ正直に言うけど、これまで私の目には、ずっと君が無理をしてるように見えてた」
「無理をしてる、って」
思わず僕は口を挟んでしまった。 玲さんは無言のまま一度だけ頷いた後、口を開いた。
「男として古谷さんの想いに答えてあげたい――あの日、君が私に全てを話してくれた時、そう言われたから私は君の意志を尊重したつもりだった。 でも、君が男というものを求めれば求めるほどに、君はどこか辛そうにしてた。 君が男としての自分を迫られる度に君はずっと悲しいような苦しいような顔をしてた」
「僕、そんな顔してましたか」
僕は自信無さげに玲さんに訊ねた。 そんな事は決して無い。 と断言したかったのは山々だったけれど、僕が玲さんの目の前で男としての選択を迫られている時の僕の顔なんてのは彼女にしか知り得ない情報であるから、それが例え玲さんの言いがかりやまったくの勘違いだったとしても、僕はその言葉を口にすることは出来なかったのだ。
「あくまで私の感覚だけどね、でも、普段の君を知ってるからこそ、そういう時に見せる顔が印象に残っちゃってるんだと思う。 君も少しは心当たり無い?」
玲さんにそう投げ掛けられた後、僕はその件に関する考を巡らせた。 ――なるほど多少俯瞰的ではあるけれども、彼女の言う通り僕は男としての自分を迫られる度に少なからずの不快感を覚えてしまっていたという場面がちらほらと思い浮かんできた。
しかしその不快感はあくまで僕がまだ男に成り切れていなかったが為の自分自身の不甲斐なさに対する苛立ち見たようなものであったと思うし、玲さんが今引き合いに出している『僕』は昨日今日の『僕』ではなく、とうの昔に過ぎ去った在りし日の『僕』なのだから、よし今まさに玲さんが僕に男としての選択を迫ってこようとも、僕は以前見たような顔つきは呈せずに一人の男として答えを出せる自信がある。
何故なら僕はもう、女じゃあ無い。 僕が僕としてようやく認める事の出来た、歴とした男なのだ。 だからこれから僕は男として、常に正しい選択肢を選んでいかなければならないのだ。
「……確かに、そういう場面はあったのかも知れません。 けどそれは昔の僕の話であって、今の僕じゃあありませんよね。 だったら心配はないですよ。 僕はこれから男として答えを出していくつもりですから。 近い内に玲さんが僕の事を男だって認めてくれる日もそう遠くは――」
「『男として』――君が人から一番言われたくない言葉だったよね」
僕の言葉を遮って、玲さんが真顔でそう言った。 その瞬間、僕ははっとさせられた。 さっきまで饒舌だった口元はぴたりと閉じ、まるで白昼に金縛りにでもあったかのよう、僕の身体は思考さえもぴたりと停止してしまった。 玲さんは続けて口を開いた。
「男として――男として――耳を塞いででも聞きたくなかったその言葉を君は、他の誰でもない君自身の中からずっと、自分自身に掛け続けてきたんじゃない? また君はそうやって昔みたいに自分に嘘を付き続けて、自分すらも騙し続けていたんじゃない?」
耳が痛かった。 確かに僕は男の容を完成させた今でもなおその言葉がどうしても好きになれないでいる。 でも僕はその言葉をこれまで何度も自分自身に投げ掛け続けてきた。 しかしそれは決して何の目算も無しにただ漠然的に行ってきたものではなく、いわゆる荒治療というもので、人間誰しも自身が嫌っているものは自身から遠ざけたいという心理を働かせる。 対象を遠ざければ当然、接触する頻度は落ちる。
しかし、いくら対象を遠ざけたところで、完全に自身の意識からそれを消し去る事は叶わない。 対象を遠ざけようとも、いずれまた接触する機会は訪れる。 その機会が訪れた時、対象への嫌悪感は今まで以上に膨れ上がってしまう。 そうした事を繰り返し、膨れ上がった嫌悪の念はやがて爆散を迎える事は必至。 故に僕は、敢えて自分から嫌悪に接近し続けたのだ。
嫌悪感を抱いているものを克服するには、それを遠ざけるのではなく、自ら進んで近寄るしかない。 荒治療とは多少聞こえの良い言葉を使っては見たけれど、いざやっている事は言うなれば感覚を麻痺させているに過ぎない。
長時間正座し続けて脚の感覚が無くなってしまった時の如く、辛いものを食べ過ぎて食べ物の味が分からなくなってしまった時の如く、僕の行ってきた荒治療もまた、本来ならば避けて然るべき対象を自身の傍に置き続け、嫌悪して、嫌悪して、いつしか嫌悪する事にさえも疲れ果て、ようよう辿り着くのは感覚の麻痺という麻薬の境地。 そうして、最早暗示と言っても差支えないほどの嫌悪を半年以上も自身に投げ掛けてきたからこそ、先の玲さんの正鵠を射た言葉に耳を貫かれてしまっていたのだ。




