第十話 追憶 9
いよいよ僕は、自分という人間が分からなくなってしまいました。 女という仮面を被っていなかったと言う事は、僕はこの世に生を受けた時から、男でありながら女の容を持っていたという事になります。 そんな馬鹿なと、自身の打ち立てた推論を自嘲しながら、しかし否定する事も出来ませんでした。 けれども、ふと思い返している内に、その推論の信憑性を裏付けるだけのいくつかの不可解な言動や思想があった事を僕は思い出しました。
「どうして男の子ならダンナさんなの? もし僕が女の子だったらどうなるの?」
第一に思い出した発言は、幼稚園時代に正美に連れられて飯事をやろうとしていた時に僕が彼女に対して放った台詞でした。 もし僕が女の子だったら――この時、何故自分が在り得もしない頓珍漢極まる発言をしてしまったのか、実のところ当時から気にはなっていましたが、結局当時分に答えを見つける事は出来ませんでした。
しかし今であれば、今だからこそ、その発言に理由を付けられるとはっきり言い切れます。 その心は単純でした。 あの時僕は、彼女に何の躊躇いも無く『男』だと決め付けられて、怒っていたんだと思います。 そして女の容を持っている僕を女として扱ってもらいたかったのでしょう。 だから僕は男としてダンナさんではなく、女としてオヨメさんという役割を演じたかったのだと思います。 そう理屈付ければあの不可解な発言にも、ようやく意味を持たせられるのです。
「別にいいけど、何で女の私がダンナさんなんてやんなくちゃならないのよ、後でぜったい交代するからね。 本当は嫌なんだから」
続けて思い出したのも正美の言葉でしたが、この発言も今となっては理解に苦しむ事もなく、さらりと受け入れる事が出来ました。 女としてダンナさんという男の役を演じるのは真っ平ご免だと言い切った正美の心情は、当に彼女が言ったその言葉自体が正解のようなもので、あの時の彼女の不承不承な態度の真意はそこに集約していたものかと思われます。
その点を踏まえたうえで改めて当時を思い返して見て、あの時の彼女の心情が第一の発言をした僕の心情と一致していた事に僕はこの歳になって漸う気が付いたのです。 そうして当時の不可解は無事解決を迎えた訳ですけれども、全ての問題が解決したわけではありません。 むしろ残された問題こそが、僕にとって最も理解に苦しい由々しき問題だったのです。
その問題とは、何故僕が男でありながら女の容を持っているのだろうという奇妙奇天烈で摩訶不思議な難問に相違ありません。 結局その答えは、僕が小学校を卒業するまでに姿を現す事はありませんでした。 もしかすると僕だけが特別なのではなく、誰しもが当然として持ち合わせているモノなのだろうかと度々楽観視する事もありましたが、僕が確認しうる限りの同級生達は、やはり男は男で女は女で在り、僕のような歪な存在は僕の生まれてから今日に至るまで、何処にも見当たりませんでした。
寒春の煽りを被ったのか、ふと一瞥した桜の花芽は未だ芽を開く事も忘れ呆けて昏々と夢心地のようです。 そうして春という季節の訪いを一向に覚えさせてはくれぬまま、僕は中学校へと進学しました。
小学校時分、父母に私を捨てろと言われたあの日から、僕は女というピースを探す事をめっきり止めていました。 元々その行為は、父母の望む『女の子』になろうとしていたが為に行っていたようなもので、一時期は周囲も見えないほどに躍起になっていましたが、今では僕にとって何の価値もない徒労に成り下がってしまいました。
今となっては、僕が何故あそこまで女というピースに執着していたのか不思議で仕様が無いぐらいなのです。 例の父母の発言さえ無ければ、僕はここまで彼らの無責任に振り回されずに済んだのです。 しかしその一方で本当にそうなのだろうかという疑問を、僕は他の誰でもない僕自身に投げ掛けられているのです。 父母が放った例の発言が無ければ女という概念に囚われる事も無く、僕は僕として、男として、全うにこれまでを過ごせていたのだろうか、と。
肯定は、何故だか出来ませんでした。 むしろ否定の念が僕の心を強く揺さぶっているのです。 その念の真意は、当然僕が一番良く理解していました。 つまり僕は、父母が口を合わせて言っていた「娘が欲しかった」という発言をたとえこの耳に聞き留めていなかったとしても、いずれ何かしらの拍子に女というピースを探し求めていたのではないかと、自らの心を疑っているのです。
そして僕が頻りにピースを集めていたのも、ひょっとすると僕の中に眠っていた不完全な女の容を完全にする為に、父母にああ言われたからと、父母を喜ばせる為だと、わざわざご大層に理由を付けて大義名分にする為の言い訳だったのではと、自らが進んで行ってきた行為に猜疑の目を向けているのです。 もしそうであるとすれば、僕は『何』として生きていけばいいのだろうと悩みあぐねた矢先、その思考がまるで見当違いだったと認めるのに、さして時間は掛かりませんでした。
『何』も何も、初めから何かを選ぶ余地など僕には在りやしないのです。 僕は男なのだから、たとえ自分の中に不完全ながら女の容が在るのだとしても、男の身体としてこの世に産み落とされた以上、男として生きる他に術は無いのです。 だから男として生きていかなければならないのです。 そうした諦観染みた念は不思議にも僕の心に幾年履き慣らした履物のように恰度と調和し、中学に上がってからはより一層自身にそう言い聞かせて、自身を納得させていました。




