第四十話 努力の果てに 6
「お、やっぱ優紀くんじゃん、やっほー。 メンツ見る限り、文化祭の打ち上げってトコ?」
双葉さんは僕たちのテーブルの前で立ち止まり、気さくに声を掛けてきた。 恐らく双葉さんの存在を知らないであろう事と、その双葉さんの身なりからいかにもな不良っぽさが滲み出ていた事も相まったのか、僕と竜之介を除いた男子はもちろん、とりわけ女子陣の動きが固くなってしまっていた。
「そうですね。 もしかして双葉さんもですか?」
「うん、って言っても君らみたいな大人数じゃないけどねー。 ってそういえば優紀くん個人特別賞とか貰ってたよね。 あたしもチラっと見たよ? 優紀くんの女装の執事姿。 あたしが男だったら間違いなく惚れてたねあれは。 んじゃせっかくの打ち上げ邪魔するのも悪いからあたしはこれで。 またねー優紀くん」
双葉さんは立て続けにしゃべり続けたかと思うと早急に話を切り上げ、軽やかに手をひらひらと振りつつ僕たちのテーブルの前から去っていった。 彼女の向かっていった先から推測するに、恐らくお手洗いへ行く途中だったのだろう。
「え、綾瀬くん、今の誰? うちらの高校の先輩っぽかったけど、もしかして綾瀬くんの彼女さんとか……」
普段の調子とは打って変わって、ひどく覇気の無い口ぶりで妙な詮索をしているのは坂本さんだった。
「いやいや違う違う。 あの人は三郎太――あ、僕らと同じクラスの鈴木三郎太のお姉さんだよ」
坂本さんの妙な詮索がみんなに伝染する前に、僕はたちまち双葉さんの正体を明かした。 すると坂本さんを始めとした女子陣は「なーんだ」とすっかり緊張から解かれたようで、間もなく安堵の空気が流れ始めた。 思わぬ来客の登場ですっかり場はリセットされてしまったけれど、先の靄然が辺りに漂うのには然程時間は要さなかった。
――それにしても、双葉さんがここに居るという事は、ひょっとすると双葉さんと同じクラスの玲さんもここに来ているかも知れない。 その可能性を思考に巡らせた途端、僕の心はざわつき始めた。
実習棟の非常階段で言い争いをしてしまったあの日から長らく続いている玲さんとの空白の時間。 その空白が今この場で埋まるかも知れないなどと安直で都合の良い事を考えていたけれど、本当にこの場に玲さんが居るとは限らないし、双葉さんより更に接点の無さそうに見える玲さんの話などを僕らの席で出してしまったら同級生の皆に大いに訝しまれてしまうだろうから、双葉さんがお手洗いから戻ったタイミングで彼女を呼び止めて玲さんの事を聞く事などはまず出来やしない。
かといって直接双葉さんらのテーブルへ行こうにも、三郎太の話からすると双葉さんの連れ合いは双葉さんに負けず劣らずの不良の人たちらしいから、いくらそこに双葉さんや玲さんが居たとしても、とてもじゃないけれど彼女らのテーブルに乗り込む勇気が沸く筈もない。
これは僕の男としての意気地の無さだとかの問題では無く、僕の後天的に刻み込まれた性質の問題で、中学時代、綾香に謝罪を果たした際、見知らぬ上級生に足蹴にされて転倒させられたうえ、まったくの敵意を以って僕を見下し、鋭い眼光で睨みつけられたその日から僕はずっと、あの上級生のような風貌をした男性、すなわち不良というものを恐れている。 きっとその時のトラウマが未だ僕を苛め続けているのだろう。
そうして、ふとした拍子に思考に浮かんだ可能性に振り回されつつ、誰の会話も碌に頭に入ってこないまま十数分が経過した頃、平塚さんが自身のコップの中身をぐいと飲み干したかと思うと、
「私飲み物無くなったから今から入れてくるけど、ほか誰か入れてこようか?」と言いながらその場に立ち上がった。
「――平塚さんはさっきもみんなの分の飲み物を入れてきてくれたし、僕もちょうど無くなってたから今度は僕が行ってくるよ」
チャンスはここしかないと思った。
双葉さんがお手洗いから戻った際、僕は彼女の向かっていたテーブルの位置を把握していた。 その席は入り口から最も離れた窓際の席で、各席に衝立が設けられているからどうしても座ったままでは向こう側に座っている人の容貌までは判明出来ないけれど、その席から一席隔てた先にドリンクバーがあり、直接その席へは近づけないもののドリンクバーを利用しに行く前提でその席を一瞥するくらいは出来るだろうから、僕はこの機を逃す手は無いと躍起になり、平塚さんの代わりにドリンクバーへ行ってくると進言したのだ。
「そう? んじゃお言葉に甘えて任せちゃおっかな。 私ミルクティーで」僕の進言を受け入れてくれた後、平塚さんが飲み物を注文した。
「じゃあ俺はジンジャーエール頼むよ」と、コップを差し出しながら山野くんが注文する。
「優紀のセンスに任せるわ」と無茶ぶりをしてきたのは竜之介だった。
「私ホットココア!」まるで子供見たような勢いで注文を寄こしてきたのはやはり坂本さんだった。
そうして計四人の飲み物の注文を承った後、僕は自分のコップを含めた五つのコップをトレーの上へ載せてドリンクバーへと向かった。
僕らの席からドリンクバーまではわりかし近距離で、僕の狙っていた機会は席を離れてから間もなくやってきた。 僕はドリンクバーに到着する直前、僅かに首を横に振り、精一杯の横目で双葉さん達が座っている座席を視認した――けれど、何となしに予覚はしていたものの、やはりそこに玲さんの姿は見当たらなかった。 そこに居たのは双葉さんを含めた女生徒二人と、男子生徒三人のみだった。
玲さんはこの店内には居ない――その事実を知り得た途端、僕の胸中には安堵とも落胆とも言えない絶妙な感情がぐるぐると渦を巻いていた。 恐らくその感情は、仮にこの場に玲さんが居たところで彼女が僕の事を許してくれるとは限らないからむしろ居てくれなくて良かったという安堵と、ここ数週間顔も見ていないし言葉すらも交わしていないから、せめて久々に玲さんの顔だけでも見ておきたかったという落胆が入り混じったものだったのだろう。 そしてその二つの感情の内、落胆の色の方が些か濃かったという事も素直に認めた。




