第十話 追憶 7
嘘。 それはものの一言で常人を罪人へと追放せしめるこの世で最も穢れた業。 父は今まさに、僕の中で罪人に成り果ててしまいました。 まるで容赦の無い冷徹な判断も致し方ないと、僕は僕の下した判決に慈悲や憐憫などの、いわゆる『お情け』など微塵一つも抱いてはおらず、僕のそうした泰然自若の態度も、ただ一つの揺るがない道理があったからこそのものでした。
言霊と云う観念が古来から現代にまで風化せずに残留している事実が示す通り、およそ人の発する言葉とは、他人の感情を、行動を、果ては生き死にさえをも左右させてしまう、恐ろしい音なのです。
この話は、僕が幼稚園に入る以前にこの世を去った父方の祖母から、それこそ耳に胼胝でも出来てしまうんじゃないかと思われるほどによく聞かされていたお話です。
「いいかい優紀、どんだけ辛くたっても、どんだけ追い詰められても、嘘だけはぜったい口にしちゃあきませんよ。 『言霊』言うてな、そりゃ昔の人はおしゃべりするのさえ嫌ったもんで、人が喋る音言うんはね、魂が宿るんよ」
「たましい?」
「そう、魂。 例えばね、おばあちゃんが優紀に、あんたはええ子やねぇって言うたら、優紀はどんな感じがする?」
「うん、ほめられて、うれしいよ」
「じゃあ、優紀は言う事を聞かない悪い子って言われたら?」
「おばあちゃんに怒られて、かなしいよ」
「そう、それが『魂』さ。 おばあちゃんが発したのは言葉っていう音だけなんだけどね、その音で優紀は嬉しくなったり悲しくなったりしたろう? 優紀の感じたその気持ちが魂で、その魂を響かせる為に言葉っていう音に乗せて口から発せられるのが『言霊』なのさ」
「……? おばあちゃんの言ってること、よくわからないよ」
「はっは、そりゃそうだわね。 優紀はまだこんなに小さいんだから、魂だか言霊だかなんて分かったもんじゃないわね。 けどね優紀、さっきおばあちゃんが言ったように、嘘だけは本当に口にしちゃあきませんよ。 嘘いうのはね、人を騙す事や。 人を騙すいう事は、人の道から外れるいう事や。 それを『外道』言うんや。 その外道はな、行灯でも照らせんくらい真っ暗や。 その歩く道筋言うたら足の幅ほどもない狭いもんや。 そんなところを怯えながらでも進めるか? 優紀」
「いやだよ、こわいよ」
「そう、怖いんだよ。 それが普通の気持ちなのさ。 でもね、この世にはそんな道の外れた真っ暗な外道でも平気で歩いてく輩がいるのさ。 そういう輩は外道に落ちても平気で嘘を付き続けるんだよ。 そんでもって、ついにその細道からも転げ落ちて、やがて『畜生』に成り下がるのさ。 だから、ほんまに嘘だけは言うたらあきませんよ、優紀」
齢八十を超えても尚、若かりし頃を覗かせる祖母の矍鑠とした口調は、老いという衰えをまるで僕に覚えさせませんでした。
「そうは言ってもね優紀」付け加えるように、祖母は続けて語ります。
「そんな事を言うおばあちゃんも、これまで嘘は付いてきた。 いや、おばあちゃんだけじゃなくて、この世に生きる全ての人が何かしらの嘘を付いて、今日まで生きてきとると思う」
「じゃあ、おばあちゃんもゲドウなの?」
「誰かにしてみれば、もしかするとそう思われてたのかも知れないさ。 でもね、あたしがこれまで生きてきた中で唯一自慢出来る事があるとすれば、それは只の一度も嘘で人を騙さなかった事だろうね」
「嘘をついたのに、誰かをだましてはいなかったの?」
「優紀、嘘言うんはね、良い嘘と悪い嘘があるのさ。 いわゆる方便言うやつでな、ほらこの前優紀が風邪引いて寝込んで、治りかけの時におばあちゃんが様子見に行って その時におばあちゃんが『すっかり元気そうや』って優紀に言ったの、覚えてるか?」
「うん、次の日、おばあちゃんが言ったとおりすごく元気になったんだよ」
「実はあれな、嘘やったんよ。 ほんとはまだ顔色が悪かったんだよ」
「ひどい、おばあちゃんは、僕をだましたの?」
「んーん、言っただろう? おばあちゃんはこれまで一度も人を騙した事が無いって。 それが優紀に対してなら尚更そんな事なんてする訳ないさ。 でもね優紀、おばあちゃんにそう言われた時、どんな気持ちだった?」
「よくわかんないけど、おばあちゃんがそう言うんだったら本当にそうなんだろうなって思って、そしたら体がだんだんふわってして、体が重たいのがどっかに行っちゃったみたいな感じだったんだよ」
「そうかそうか。 病は気から言うてね、落ち込んでて体が思うように動かないなぁって思ってたら本当に体が重たくなるものなんだよ。 優紀の風邪もその時にはほとんど治ってたんだろうけど、多分心のどこかで自分は今弱ってるんだってずっと思い続けていたんじゃないかい? だから、おばあちゃんがその弱気を吹き飛ばしてやったのさ。 方便っていう良い嘘でね」
「すごい! おばあちゃん、お医者さんになれるよ!」
「はっは、これでお医者さんになれるならおばあちゃん、世界中飛び回って弱ってる人を助けてあげたいねぇ。 でもね優紀、これはそんなに都合のいいもんでも無いんだよ。 自分がどんなに良い嘘って思ってても、言うべきところを間違えれば、それは他の人にとっての悪い嘘になりかねないんだよ」
「じゃあ、良い嘘と悪い嘘はどうやって見分けるの?」
「それは、優紀がこれから自分で探すのさ。 おばあちゃんなんてもう八十超えてるから、良い嘘と悪い嘘の区別なんてお手のものだけどね」
「ずるいよ、知ってるなら僕にもおしえてよ」
「だーめ。 これは人から教わるものじゃなくて自分で探さないとだめなのさ。 大丈夫、優紀は人の気持ちがよく分かる子だからきっと人を騙すような事もしないだろうし、もうちょっと大きくなったら良い嘘と悪い嘘の区別も付くようになるさ。 おばあちゃんが保証してあげる」
祖母に巧く言い包められた僕は返す言葉も思いつかず、結局良い嘘と悪い嘘の区別の仕方などこれっぽっちも教示してくれないまま、祖母は僕の人生から姿を消しました。




