第十話 追憶 5
麗らかな陽気が肌に優しく馴染む弥生の時節、僕は小学生に進級しました。
その後の幼稚園時代の経過だけ述べますと、年長組の折に二つ目のピースを見つけたきり、それ以上のピースを見つける事は叶いませんでした。 結局、正美から「かわいい」と言われたあの時の胸の高鳴りは僕の心の奥底へ沈下したまま決して浮き上がってくる事はありませんでしたが、僕はその高鳴りに酷似した感覚を幼稚園時代にもう一度だけ感じていたのです。
幼稚園時代というよりは卒園時と言った方が正しかったのかも知れませんが、入園時から卒園日まで僕が懇意に想っていた正美が家族の仕事の都合上、幼稚園の卒園を以って街から引っ越してしまったのです。 正美の引越しの事を知らされたのは卒園式当日で、教えてくれたのは正美本人でした。 僕はすっかり彼女と同じ小学校に入学するつもりでいましたので、突然の彼女との別れには、まるで心にぽっかり空洞でも出来てしまったかのような喪失感を与えられてしまいました。
卒園式終了後、僕は帰路の車の中で、そして家に帰ってからも一人で、何故悲しいのかも分からずひたすら落涙していました。 僕は他人の心情の動きには人一倍敏感なくせに、いざ自分の事となると、まるで駄目なんです。 自分の感情がどこにあるのかさえ、分からないんです。 そうして、迷子になった僕の感情を見つけてくれるのは、やはり母でした。 母は一向に泣き止まない僕を胸に抱きしめて、聖母のように慰めてくれました。
「おー辛かったねー、よしよし。 正美ちゃん、卒園式当日に突然引越すなんて言うんだからまともにお別れの挨拶も言えなかったもんねー。 優紀、正美ちゃんの事好きだったもんねぇ」
しかし聖母が見つけ出したのは、まったく別の感情だったのです。
好き。
果たして好きとは、どういう感情なのでしょうか。 僕の心のどこから沸きあがってきた感覚なのでしょうか。 僕にはまだ理屈の付けられない感情でしたので、迷わず『人生の手引書』を引く事にしました。
「おかあさん、好きって、なに?」
「好きっていうのはね、その人と一緒に居て楽しいとか、その人の傍にずっと居たいとか、そういう気持ちの事なの。 優紀もそういう気持ちになった事、あるでしょ?」
「うん、僕、おかあさんが好き、おとうさんも、おにいちゃん達も、みんな好き。 一緒に居て楽しいし、ずっと傍にいたいよ」
「ふふ、お母さんもお父さんもお兄ちゃん達も優紀の事、大好きよ。 でもね、優紀が持ってる『好き』っていうのはね、それとはまた別の『好き』なの。 男の子が女の子を、女の子が男の子を好きになるっていう気持ちはね、『好き』の中でも特別中の特別なの。 んー、まだ優紀には難しかったかな?」
確かに、母の言うところの『好き』は今の僕にはとても理解し切れる代物ではありませんでしたが、それでも自分が泣いていた理由だけは何となく理解出来たような気がしました。 恐らく僕は母の言う通り正美の事を好いていて、これからも一緒に居続けたいと無意識に心の内に望んでいたのでしょう。 そう解釈すれば、まるで抑制のつけられなかったあの落涙にも意味が付けられます。 しかし、母の言葉の中に一つだけ引っかかりがあった事も事実でした。
母はこう言いました。 男が女を、女が男を好きになるという気持ちは好きの中でも特別だ、と。 母のその言葉が真理であると言うならば、果たして僕は、彼女を「何」として好きだったのでしょうか。 男としてでしょうか。 それとも女としてでしょうか。 いいえ、僕は男なのですから、当然男として彼女を好きだったのでしょう。 でなければ、母が嘘を付いていたという事になります。 それは有り得ませんでした。 何故なら母は、生まれてこのかた僕に嘘など付いた試しはありませんでしたから。
では、僕の胸に滞るこのモヤモヤは一体、何なのでしょうか。 この気持ちの根源が母の言うところの「好き」だという事は認めます。 ですが、それ以上の何かが僕の胸に痞えたまま、まるっきり姿を現しません。 このモヤモヤこそが、母の言うところの「特別」なのでしょうか。 理屈は付けられそうにありませんでしたが、何となくそれは違うようにも思われました。 理由も理屈も付けられない曖昧模糊極まりない否定の念は、ことによると僕にとっての願望であったのかも知れません。
その願望というのも、願いとは名ばかりのもので、自身の中から生み出された感情でありながら、すんなり受け入れる事の出来ない不可解な気持ちが、母にあれほどの幸な顔をさせながら言わしめた「特別」であってたまるかという反抗にも似た思いでした。 そうして、判然としない念を心の内に抱き始めてからというもの、僕の心境は日を重ねる毎に秋空のような深みを強く帯びていきました。




