第三十二話 触発 9
それからしばし先輩と雑談を交わしている内に私のグループの休憩時間が終了間際となったので、私は「そろそろ行ってきます」と先輩に断って、その場に立ち上がった。
「うん、残り時間も頑張ってね」先輩は優しく私を送り出してくれた。
「はいっ。 ――また悩みが出来たら、先輩に聞いてもらってもいいですか?」
気が付けば私は、先輩の方を振り返ってそんな事を口走っていた。
「もちろん。 そういう事なら連絡際交換しとこうよ。 練習終わってからまた会える?」
「え、あ、はいっ、大丈夫だと思います」
まさか先輩の方から連絡先を交換しようだなんて言ってくれるとは思ってもいなかったから、私は戸惑いながらも彼女の提案を承諾した。
「それじゃ、練習が終わったらまたここに集合って事でいいかな」
「わかりました。 また後でお願いします」
練習後にこの場所に落ち合うという約束を交わした後、私は先輩に軽く会釈してから私のグループへ戻って練習を再開した。 それから練習が終わるまで、私の頭には先輩の存在がずっと浮かび上がっていた。
「ふぅ、今日も結構走らされたぜ。 放課後こんなに練習するんなら昼の練習いらないよな絶対」
「だよね。 昼の練習が終わってもたもたしてたらお昼食べる時間も無くなっちゃいそうだし」
――予行練習が終わってから間もなく、私は三郎太くんと合流し、昼練習の必要性を問いながら運動場の隅で制服に着替えていた。 それから、私より先に着替え終えた三郎太くんが「んじゃ先に自転車取って来るわ」と言って、校舎の北の最側面に位置する自転車置き場に向かって歩き始めた。
三郎太くんが「先に帰る」ではなく「先に自転車を取って来る」と言ったのには理由がある。 体育大会の放課後練習が始まってから彼は、ユキくんと神くんと真衣の居ない駅までの帰路を私一人で歩かせるのは忍びないからと、わざわざ自転車を押して私と一緒に駅まで付いてきてくれていたのだ。 三郎太くんの家は駅へ向かう方向のまったく反対側にあるらしいから、当初は私の話し相手の為だけに彼に真反対の道を歩ませてしまう事を憚って、彼の申し出を断っていた。
しかし彼は――たった五分くらいの距離だし、どうせすぐに家に帰ってもやる事は無いから気にするな。 それに今は『ユキくん嫉妬大作戦』中だし、もし俺達が一緒に帰ってるって噂をユキくんが耳にしたら、彼はきっと嫉妬してくれる――と私に強く言ってくるので、私はその押しの強さに根負けし、彼に無駄足を踏ませる事を分かっていながら彼からの気遣いを受け入れていた。
「ごめん三郎太くん、今日はこれからちょっと学校で用事があるから、先に帰ってくれてていいよ」
でも今日は先輩との先約があったから、私は彼と一緒に帰れない事を伝えた。
「そうなのか? すぐ終わる用事なら校門で待っとくけど」
「ううん、ちょっと時間掛かるかもだから、私の事は気にしないで先に帰ってて」
私が先輩と会っているところを彼に見られると彼に不審がられるかも知れないから、連絡先を交換するくらいすぐ終わるとは思うけれど、私はあえて用事の件を曖昧に濁し、彼に不要な詮索をされないよう立ち回った。
「そっか。 そういう事なら仕方ないな。 んじゃまた明日な千佳ちゃん。 また暇してたら夜にメッセでも送るわ」
「うん、また明日ね三郎太くん」
かくして三郎太くんと別れた私は着替えを済ませた後、先輩との待ち合わせ場所に向かった。
先輩は既に待ち合わせ場所に立っていた。 先輩を待たせてしまっているという罪悪感から、私は先輩の姿を見つけるや否や小走りで彼女の元へ向かった。
「すいません、お待たせしました」
「大丈夫だよ、私も今来たところだから」
何処かで聞いた事のある恋人同士の待ち合わせの文句みたいなやりとりを交わした後、私達は連絡先を交換する為、互いの携帯電話を取り出した。 その時に、先輩の携帯電話に付けられていたアクセサリーに目を奪われた。 大きさで言えば飴玉くらいの小さなもので、色合いもそれほど派手なものではなかったのに、何故か知らないけれど一目見た瞬間から妙にそのアクセサリーの存在が私の頭を過ぎって離れなかった。
「先輩の携帯に付けてるそのアクセサリー、何だか不思議な感じがしますね」
だから私は思わず、思ったままを口にした。
「ん、ああ、これの事? 確かにそんな感じしてるかも。 もらった当時は何とも思わなかったんだけど、眺めてる内にすっかり気に入っちゃってさ」
「もらったって、もしかしてそれ、彼氏からのプレゼントですか?」
「いやいや違う違うっ! 友達からもらったやつだよ! っていうか私、彼氏なんていないからね?!」
何の気も無しに私がそう訊ねると、先輩は少し慌てた様子で私からの問いに対し、強い否定の色を示した。 これほどまでに焦っている先輩は初めて見た。 先輩は普段から落ち着いていて、私などでは到底出す事の出来ない大人な印象を醸し出していたから、先輩にもこうした可愛らしい一面があるのだなと、何だか無性に嬉しくなった。
それにしても、先輩に彼氏がいない事には驚かされた。 先輩くらいの人なら自分から動かなくても異性の方から寄ってきそうだし、食堂で先輩の存在を知った時からずっとこの人には相応の彼氏がいるに違いないと思い込んでいただけに、私にとってその事実は中々に衝撃的だった。
「そうだったんですか。 変に詮索してしまってごめんなさい」
「いーよいーよ。 んじゃ交換しよっか」
私の知らない先輩の一面を知りつつ、私達は互いの携帯電話を操作して、連絡先の交換を始めた。




