第三十一話 月は東に日は西に 3
「お久しぶりです、先輩」
彼は私の顔を見据えて優しく微笑みつつ軽く会釈した。
「うん、久しぶりだね」
私も彼の笑みにつられて自然と口元を緩ませた。 それにしても、彼の私服を見たのは初めてだったから、どことなく新鮮味を感じる。 白のシャツの対照になるよう黒のジャケットを羽織り、下は濃紺のジーンズを穿いていて、その上で彼は上背があるから余計に映えて見える。 私の勝手なイメージで、彼はもうちょっと地味めな格好をしていると思い込んでいたから、ちゃんとお洒落している事に驚かされた。
私の予想に反して彼が余所行きらしいお洒落な服装をしていたから、家着のシャツ一枚にハーフパンツというラフな格好で彼の前に立っている私が何だか急に恥ずかしくなってきた。 こんな事ならもう少しまともな服装をしてくるべきだったのかも知れない――こんな事なら? 私は一体何を期待していたんだか。 別に私は私のラフな姿を彼に見られようが構いやしないし、寝巻きで彼の前に立っているんじゃあ無いんだから彼もいちいち私の服装について言及してくる事も無いだろう。
なら私は何故先ほど『こんな事なら』などと、私の服装に対して後悔を抱いたのだろう。 ひょっとしたら私は、彼にもう少しまともな私服を見せたかったなどという浅はかな願望を抱いてしまっていたのだろうか。
――馬鹿馬鹿しい。 私はここに何をしに来たんだ。 私の私服の品評を彼に下してもらう為にわざわざ駅まで出向いたのか? 違うだろう。 私は、彼からの土産を受け取る為にここに来たのだ。 だから、今すぐその浮ついた感情を一切丸ごとその場に捨て去れ――私は胸中で私自身を戒めつつ、後ろ手して掴んでいた手首に強く爪を立てながら彼に対応した。
「わざわざ駅まで来てくれてありがとうございます」
「気にしなくていーよ。 自転車なら私の家から駅まで二分くらいだからね」
「そんなに近かったんですね」
「近いよ。 だって私の家、高校と駅の中間くらいの位置にあるもん」
「そう言われて見ればそれぐらいの距離でしたね。 高校も駅も近くて羨ましいです」
そうした雑談をしばらく交わしつつ、彼が乗ろうとする次の電車が十五分以内にこの駅に到着する事を彼から知らされた私は「ちょっと待ってて」と彼に断りを入れた後、駅舎の真隣に設置されてあった自動販売機に駆け寄り、一本のペットボトルのジュースを購入し、彼の元へと戻った。
「急にどうしたんです先輩、喉渇いてたんですか」
私の突拍子の無い行動を見て、彼は少し首を傾げながら不思議そうに訊いて来る。
「んーん、私のじゃないよ。 これはキミの。 はい、どうぞ」
私はそう言ってから、先ほど購入したペットボトルのジュースを彼の前に差し出した。 味は直感で選んだメロンソーダだ。
「え、いいんですか」
「うん。 お土産のお返しってわけじゃないけど。 まぁ受け取っといてよ」
彼はしばし思考する素振りを見せた後「……じゃあ、いただきます」と若干ためらいの気色は覗かせつつも、私の手からペットボトルを受け取った。
「あ、そういえばまだお土産渡してませんでしたね」
お土産、という言葉を聞いて思い出したのか、彼は体に提げていたボディバックのチャックを開いてごそごそと中を探り、そして中から小さな紙袋を取り出し、
「全然大したものじゃないんですけど、どうぞ」と言い添えて、それを私に差し出した。 しかし、先の彼の言葉に引っかかるところがあったので、ちょっとからかってやろうと思う。
「ふーん、キミは私に大したものじゃないモノを渡そうとしてるんだ? って事は、相手の事を考えもしないで適当に買ったって事だよね。 キミがお土産をくれるって言ったから期待してたんだけど、残念だなぁ」
「そ、そんな訳ないじゃないですかっ! ちゃんと玲さんの事をしっかり思い浮かべながら考えて買いましたからっ!」
「ちょっ、バカっ! 声が大きいってっ」
彼はムキになると墓穴を掘る癖があるのは以前から知り得ていたけれど、今回の墓穴は二つ用意されていたらしく、私まで彼と仲良くそれに入る羽目になってしまった。
彼が声を張り上げた時、間が良いのか悪いのか、日傘を差して道を歩いていた若い女性に彼の主張をまったく聞かれた挙句、その女性にくすくすと笑われてしまったのだ。 幸い駅の利用客の少ない時間帯だったから先の女性に聞かれただけで済んだけれど、あの女性から見た私達の会話はきっと、恋人同士の惚気に聞こえてしまったに違いない。
人を呪わば穴二つ。 私は思いがけぬところで面食らわされてしまった。




