第三十一話 月は東に日は西に 1
タイマーをセットしていたエアコンが消えた事にも気づかないまま、私は朝方目を覚ました。 枕の隣に置いていたスマートフォンで時刻を確認してみると、現在は八時前。 普段より就寝が遅かったから次の日の体調が少し気にかかっていたけれど、今朝は眠気も疲れもばっちり取れていて、逆に絶好調だった。
ふと、ユキくんが一緒の部屋で寝ている事を思い出して、彼の布団の方を見てみる。 どうやら彼はまだ夢の中のようだ。 それにしても――
「……ふふっ」
ユキくんの寝相を見るや否や、私は思わず失笑を溢してしまった。 というのも、彼は今、布団をお腹に掛けた状態で横向きになり、体を丸めるようにしてぐっすり眠っている。 そして私はこの寝相に心当たりがあった。
いつぞやのファッション雑誌に掲載されていた『寝相でわかる深層心理』という特集の中で、今のユキくんの寝相は『胎児型』として紹介されていた。 寝相が『胎児型』の人は確か、何かに対する依存心が強くて、何かと心配性で、甘えん坊の傾向があったと書いてあったのを覚えている。
ユキくんが何かに依存しているところは見かけた事は無い、と思う。 心配性なのは――結構当たっている気がする。 これまでの付き合い上、彼は結構あれこれ悩みを重ねて必要以上に自分を追い込んでしまうタイプの人だから。 球技大会の時が良い例だ。 そして甘えん坊という項目については私が見てきた限り彼にそうした素振りは無かったから、私の中での彼は甘えん坊などではなく、しっかりと自分の意思を持った人物だと思っている。
けれど、この傾向はあくまで普段は見える事の無い深層心理を謳っているものであって、ひょっとすると私の知らないところでユキくんは、誰かに依存し、かつ甘えたがりなのかもしれない。 そう思うと、私のまだ知らないユキくんの一面を寝相から想像出来たような気がして、つい嬉しくなって笑ってしまったのだ。
こうした機会でもなければ見る事の無かった、ユキくんの人柄からは想像も出来ない可愛らしい寝相。 あまりに珍しい光景だから、写真に収めてやろうかと思ってもみたけれど、さすがにそれは卑怯のような気がしたから、私はベッドに腰掛けながらしばらく彼の寝相をじっくりとこの目に焼き付けていた。
――そろそろ彼も目を覚ますだろう。 朝食の用意をしておかなければならないなと使命に駆られた私はその場に立ち上がり、今一度ユキくんの寝相と寝顔を堪能した後、音を立てないよう静かに部屋を後にした。
―幕間― 『寝相』 完
「……ん」
浅い意識の中、瞼を半分開けると、あまり見覚えの無い部屋に朝の日差しが強く差し込んでいた。 ここはどこだろうと思考を巡らせた一瞬で、僕は今日一番の意識と昨日までの意識とを合致させ、真実に至った。
僕は昨日、古谷さんの家に泊めてもらっていて、古谷さんが風呂から戻ってくる前に寝てしまっていたのだ。
――玲さんとの通話が終わった後、僕は古谷さんが戻ってくるまで起きていようという意地をすっぱり捨て去り、早々に寝支度を済ませて床に就いていた。 意地を捨て去ったのは別に、いよいよ眠気に耐え兼ねてしまったからという訳でもなく、ただ単に僕の意地でまた古谷さんに余計な気を遣わせてしまいそうだったからであり、その辺りの意思変更は玲さんの叱責を参考に行った。
そういえば、古谷さんの姿が部屋のどこにも見当たらない。 僕はまず現在時刻をスマートフォンで確認した。 ――九時前だった。 自分の思っている以上に疲弊していたのだろうか、一度も目が覚めないでこんな時間まで寝てしまっていた事にひどく驚いた。 その代わり、昨日の諸々の疲労は僕の身体からまったく取り除かれていた。 野宿ではこうはならなかったろう。 だから僕は目覚め一番に、古谷さんが寝床を用意してくれた事への感謝を胸に抱いた。
すると、扉の向こうからとんとんとん、と階段を昇る優しい足音が聞こえて来た。 そして部屋の扉が開き、現れたのは、トレーを持った古谷さんだった。 服も寝間着から着替えたのか、部屋着らしいカジュアルな服装をしている。
「あ、ユキくん起きたんですね。 おはようございますっ」
「おはよう古谷さん。 昨日は先に寝ちゃっててごめんね」
「いえいえっ。 ユキくん大分お疲れみたいでしたし、ぜんぜん気にしてないですよ。 それとそろそろ起きるかなーっと思って朝食用意してたんですけど、寝起きで食べられそうですか?」
そう言いつつ、古谷さんは両手で持っていたトレーをテーブルの上に置いた。 そのトレーの上には、熱で蕩けたチーズがクラムにたっぷり乗っかったトーストを乗せた皿が二枚と、湯気立つコーヒーの注がれたコーヒーカップが二つ、あとはコーヒーに入れる為であろう小さなミルクピッチャーの容器とスティックシュガーが二つずつ乗っていた。
正直なところ、寝起きで食欲はそれほど無かったけれど、トーストにトッピングされたチーズ――いや、これはチーズだけの匂いではない。 敢えて形容するならば、ピザに近しい匂いだ。 ――寝起きの頭をも叩き起こすような芳しい香りは、たちまち僕の食指を動かした。 と同時に、僕のお腹は古谷さんに憚る事すら忘れて、ぐぅと鳴った。 僕は目線を下げて頬を熱くした。
「ふふっ、聞くまでもなかったみたいですね。 それじゃ、冷めない内に食べましょうよ」
「……うん。 じゃあ、いただきます」
食前の挨拶を済ませた後、僕はピザトースト(古谷さんから料理名を聞いた)を頬張りつつ、彼女と談笑しながら優雅な朝食を満喫した。 この時間もピザトーストも、野宿では決して味わえない至高のもてなしだ。 ゆっくりと噛み締めて味わわなければ罰が当たりそうだ。 僕は一噛み一噛みを大切に咀嚼した。
そうして朝食を食べ終えてからしばらくの間、昨日出向いた花火大会の話題で盛り上がった後、時刻にして十時前、僕は古谷さんの家をお暇する旨を彼女に伝えた。 古谷さんはもう少しゆっくりしていけば良いのにと言ってくれたけれど、さすがにこれ以上彼女に世話を焼かせ続ける訳にも行かなかったから、彼女の気持ちは汲みつつも、僕は彼女からの申し出をやんわり断り、帰り支度を始めた。
「――ほんと助かったよ古谷さん。 この恩は必ずどこかで返すよ」
玄関で靴を履き終えた後、僕は古谷さんの方を向いて今回の宿泊の件についての礼を述べた。
「恩だなんて大袈裟ですよ。 私がそうしたかっただけですから気にしないで下さい」
古谷さんにとっては無償の愛だったのかも知れないけれど、それでも僕が彼女から恩を受けた事に変わりは無い。 でも、今その事について論判を繰り広げたとしてもきっと彼女を押し切る事は出来ないだろうから、ここは素直に古谷さんに合わせておいた方が良さそうだ。
「古谷さんがそう言うなら、そういう事にしとくよ。 じゃあ、次会うのは始業式だね」
「そうですね、もう夏休みも残り一週間くらいですし」
「三郎太の宿題が終わってるか心配だよ」
「真衣もですね。 大分進めてるとは言ってたんですけど」
「……」
「……」
「「ふふっ」」
申し合わせたかのように、僕達はまったく同じタイミングで失笑を溢した。
「それじゃ、そろそろ行くよ。 お邪魔しました」
「はいっ、お気をつけて」
僕は手を振る古谷さんに軽く微笑んだ後、颯爽と方向転換し、玄関のバーハンドルに手を掛けた――
「……古谷さん」
「はい? 忘れ物ですか?」
「これ、鍵掛かってるみたいなんだけど」
「あーっ! ごめんなさい施錠解くの忘れてましたっ!」
電子錠も、良いムードの時に自動で開いてくれるほど便利では無かったらしい。




