第三十話 おやすみは言えなくて 9
お互いの事をよく知る青春真っ盛りの男女が二人で花火大会に出かけて非日常的な時間を過ごした後、とある不都合で彼が乗るべき電車に乗り損ねてしまい、やむを得ず彼を家に招いた。 家族は都合良く旅行で出払っていて、広い家の中の一部屋に彼と一晩二人きり――一体何処の誰が仕組んだシチュエーションだ。
今時ベタな恋愛漫画でもここまで露骨な演出はしないだろうと、この筋書きを描いた恋愛の神を嘲った。 でも私は今まさに、そんな露骨な恋愛漫画のヒロインを演じようとしている。 ――いえ、ヒロインなんかじゃない。 だって私はユキくんの恋人でも何でもないのだから。
だからこそユキくんが、恋人同士でも無いのに私にそうした行為を求めて来る筈が無いとは確信していた。 けれど、彼だって男だ。 いくら恋人同士じゃないからと言って、二人きりの空間で同じ空気を吸っていたら、恋人だ何だと言う前に、一人の男として一人の女を求める可能性も十分在り得る話だ。
もちろん私だって、彼とのそういう行為をぜんぜん望んでいない訳じゃないし、心の隅にあわよくば――という、はしたない色欲を抱いている罪深き自分自身が居る事も既に認めている。 でも、それでも、やっぱりそういう事は、恋人同士になってからじゃないと駄目だと思う。 だから私は、たとえ彼からそういう行為を求められたとしても、断固として拒否するつもりでいる。
"でも、キスくらいなら良いんじゃない?"
ようやく私の貞操意識が高まり始めた時に、私の中の色欲がいい加減な事を囁いてくる。
キスくらい? ――そういう問題じゃない。 これは私とユキくんの関係の話であって、キスだとかエッチだとかの肉体的な話じゃあない。 だからキスとエッチを比較すること自体が大間違いなのだ。 それ以前の問題だ。 いい加減な事を言ってないで大人しく黙っていろ。 と、私は私のはしたない色欲を叱り飛ばした。 それと同時に、彼の中の色欲が私のようにはしたなくない事をただただ祈った。
それからまた五分ほど経過した頃、眠気にも風呂の熱さにも耐えられなくなってきた私は、しかし念を入れてあと五分だけ湯船で時間を潰す事を心に決めた。 そうして、私はこの五分のあいだに出来るだけ心を落ち着かせられるよう、自分にとって都合の良い事を自分に言い聞かせて精神統一を図った。
(きっとユキくんはもう寝てる。 寝てなくても、ユキくんは私をエッチになんて誘わない。 ユキくんがそんな真似をする筈がない。 そうに決まっている。
そういえばユキくん、お風呂早かったなぁ。 もしかして私に気を遣って、早めに上がってくれたのかな。 だとしたら悪い事しちゃったかもしれない。 私の事なんて気にせずに、ゆっくり湯船に浸かって疲れを落としてくれたら良かったのに。
でも『いいお湯だったよ』って言ってたから、多少は湯船に浸かっていたんだろうと思う。
するとユキくんはこの湯船に浸かって――
浴槽のここに背中を預けて――
浴槽のここにお尻を乗せて――座っていたのかな。
じゃあ私は今、ユキくんの浸かっていた湯船に浸かっていて、
ユキくんの背中を預けていた所と同じ場所に背中を預けていて、
ユキくんのお尻を乗せていた場所に私のお尻を乗せているという事だ。
――私ったら何だかすごく、イケナイ妄想をしているような気がするけれど、
頭がぼーっとして良く分からない。 えーっと、何だっけ……。
ユキくんが裸で浸かってた湯船の中で――
ユキくんのお尻と私のお尻が間接的に触れ合って――お尻合い。
――ぶくぶくぶく……っ!! ぷはっ?!」
気付かぬ内に私の体は鼻先まで湯船の中に浸かってしまっていて、危うく湯船の中で溺れてしまいそうになる間際、寸でのところで意識を取り戻して何とか事なきを得たものの、若干鼻の中に湯が入ったらしく、鼻の奥がツンとなって涙が出た。
どうやら目を瞑って精神統一していたのが間違いだったようで、一瞬ではあるけれど夢心地になってしまっていたようだ。 先程の夢心地の思考が僅かに残っているけれど、断片的過ぎて何を考えていたのかまでは分からない。 でも何だか、とてつもなく恥ずかしい事を考えていたような気がするから、あえて深く思い出さないようにした。
「……さすがにもう上がらなくちゃ」
まだ五分は経っていなかったけれど、これ以上湯船に浸かっていると本当に湯船で溺れてしまいそうだから、私はユキくんが寝てくれている事を信じて、湯船から上がった。




