第三十話 おやすみは言えなくて 8
「ふぅー」
私は湯船に浸かり風呂の天井を見上げながら、一つ大きな溜息をついた。 その溜息は、リラックスの意味を込めての溜息であると同時に、わずかばかりの不安も混じっていた。
その不安を生んでいるのは、ユキくんの存在に他ならない。 不安とは言ってしまったけれど、決してユキくんが私の家に泊まる事を煩わしく思ったり、迷惑だと感じている訳で無い事だけは声を大にして伝えたい。 むしろ私の抱いている不安は、その真逆だと言っても良いくらいだ。
――私はあの時、その場の勢いでユキくんを家へ誘ってしまった。 自分でも出過ぎた真似をしてしまったとは思っている。 でも、あのままユキくんと駅で別れる事だけはしたくなかった。 だって、自分の好きな人が家へ帰る術を失った挙句、野宿をするなどと聞いてしまったら、その境遇を見過ごせる筈が無いじゃないか。 それに、その原因を作ってしまったのが私である事は明白なのだから、尚更見過ごす訳には行かなかったのだ。
でもそれは、私の善意の押し付けであって、実際のところユキくんが私の家に泊まる事に対してどういった心境を抱いていたのかは私にはとても推し量れない。 少しでもありがたいと思ってくれていれば幸いだけれど、余計な真似をしてくれたな、などと思われてしまっていたらどうしよう。 そんな一抹の不安が、彼が家に来た時からずっと私の胸を揺さぶり続けている。 だから私はその不安を消し去る為に、出来る限りのおもてなしの精神を以って彼に奉仕していた。
しかし今思えばあの行き過ぎた奉仕も、彼に煩わしさを覚えさせてしまうような行為であったのではないかしらと、不安に不安を重ねるような気持ちになって、洗髪、洗顔、洗身が終わった今もなお私は湯船から上がれないでいる。 かれこれ十五分以上は浸かり続けているかもしれない。 さすがにそろそろのぼせてきた。 熱さと不安と眠気が入り乱れて、頭がぼーっとする。 でも私は湯船の中で膝を抱えて縮こまったまま動かない、いえ、動けない。
「……もうすぐ一時か。 ユキくん、もう寝てるかな」
浴室モニターに表示された時刻を見て、現在のユキくんの状況を考えてみる。 彼は比較的寝るのが早い方だし、私が風呂に入ってから既に四十分近くは経過しているから、きっともう寝てしまっているだろう。 おやすみの一言くらいは言いたかったけれど、今回はそうであっていて欲しいと私は願っている。
いつもの私ならば、私が風呂から上がってくるまで彼に起きていて欲しいなと願っていたと思う。 どのみち明日も休みだし、私が部屋に戻ってからユキくんの迷惑にならない程度に眠たくなるまで彼とおしゃべりして、それからおやすみって言い合って、明かりを消して、しばらくしてから「まだ起きてますか」なんて定番の文句を口にしたりして、「まだ起きてるよ」だなんて言われたらそこからまたおしゃべりが始まって、何でもない他愛ない会話を繰り広げている内にどちらか一方が寝ちゃって――なんて甘い幻想を、私は私の地元の駅に着くまでの電車の中でずっと思い巡らせていた。
けれどユキくんが私の部屋に入ってからは、そんな幻想を抱く余裕すら無かった。 あのユキくんが、私があの日から一日も欠かさずに恋焦がれてきたあのユキくんが私の部屋に居るという事実は、私から正常な思考の一切を奪い去った。
誰しもがそういう訳ではないのだろうけれど、少なくとも私という人間は、極限の緊張を通り越した時、かえって冷静になる事がある。 その症状は人間の内に備わった防衛反応の一種なのかも知れないけれど、恐らく私の場合はただ単に、私の周りで起こる事柄の刺激の強さに耐え切れず、刺激に対する感覚が麻痺してしまっているだけだと思う。
だから私はあの時、上着とは言え大胆にも彼の目の前でいきなり服を脱ぎ始めたりしてしまったのだろう。 ひょっとするとあの行為が原因で、私は彼に平気で異性の前で服を脱ぎ始める羞恥の無い子だと思われてしまったかも知れない。 冷静になっていると言っても、普段のまともな思考が働いている訳ではないから、必ずどこかでこうした失敗を犯してしまうのが私の常だ。
そして、感覚が麻痺しているとは言え、数々の刺激を感じている事に変わりは無く、その刺激の一つが麻痺している感覚さえも呼び起こす強烈な刺激であったならば一体どうなるだろう? 答えはパニックだ。
私は風呂場へ向かおうとしていた時、あろう事かユキくんのすぐ傍に私の着替えのショーツを落としてしまった。 挙句それを彼に拾われて手渡された時にはもう私の思考回路は焼き切れんばかりにショート寸前で、あの場で卒倒しなかったのが奇跡だと思えるくらいにあの時の私は完全に我を忘れてしまっていた。
不幸中の幸いじゃないけれど、落としたショーツは崩れないようにウエスト周りのゴムの中へ入れ込む形の畳み方をしていて、見た目はほぼ正方形の布の塊のようなものだから、恐らくユキくんもあれが何の布だったのかは分からなかったはずだ(と思いたい)。
ただ、彼が私のショーツを手に取ったという事実には変わりなく、その場面を思い出す度に私の胸はどきどきと鼓動を強め、顔を火照らせてしまう。 それだから私は余計に湯船から出られなかった。
でも実はもう一つ、私が湯船から上がれないでいる理由があった。 それは――
「……もしユキくんがエッチしようだなんて言ってきたらどうしよう」
私のまるで行き過ぎた妄想の為に違いなかった。




