第二十九話 鼓動は胸に響き 6
屋台で購入した二つの品をボディバックにしまい込んだ後、僕は古谷さんとすぐに合流出来るよう、彼女が並んでいた簡易トイレの方角へと向かっていた。 歩きながらスマートフォンで時刻を確認すると、現在は二十二時三十分前。 古谷さんからの連絡はまだ無い。 いよいよ僕は焦燥を隠せずにはいられなくなった。
僕の乗るべき最終便の時刻は二十二時四十二分発の電車だから、いま駅へ向かって辛うじて間に合うといったところで、これ以上駅へ出発するのが遅れれば乗り遅れは必至。 僕は帰る術を無くしてしまう。 この時僕は、古谷さんと別れる前に彼女の言っていた、僕だけ先に帰るという選択肢を視野に入れていた。 直接断りは入れられないけれども、電話なり何なりで事の火急なのを伝えればきっと彼女も納得してくれるだろう。 ――しかし、やはり駄目だ。
僕はあの時、古谷さんを待つと言い切った。 それなのに今更電車に間に合いそうにないからと尤もな理由を付けて一人駅へ向かうというのは、いかにも自分本位で情けない。 二人で花火会場まで歩いて、二人で屋台を見回って、二人でご飯を食べて、二人並んで花火を見たのだから、帰る時も彼女と一緒でなくては駄目だ。 何故ならこれは、デートなのだから。 デート中に男が女性を置いてきぼりにして一人そそくさと姿を消すというのはあまりに薄情が過ぎる。
もしそうした不義理を果たしてしまったが最後、今日僕と古谷さんが育んだ情愛は、夜空に散った花火の数々の如く、跡形も無く消え去ってしまうだろう。 だから僕は、たとえ乗るべき電車に乗り遅れようとも、彼女を待ち続けなければならなかったのだ。
そうして、古谷さんから連絡が来たのは二十二時四十分頃。 僕は、地元に帰る術を失ってしまった。 その後まもなく古谷さんと合流し、僕達はそのまま駅へと向かった。 駅へ辿り着くまでの間、僕は幾度と無く彼女から謝罪を受けた。 しかし僕は彼女を怒ったり、恨んだりするつもりは毛頭なかった。
確かに、あの状況で僕が時間内に乗るべき電車に乗車出来る術はあったし、僕がその術を取っていたとしても、古谷さんは二つ返事で納得してくれただろう。 しかし、僕は僕自身の意思で、その術を頑なに拒んだ。 故に、僕が乗るべき電車に乗り遅れたのはまったく僕自身の所為に相違なく、僕が電車に乗り遅れたのを彼女の所為にするのは筋違いだという事だ。 だから僕は古谷さんが謝罪を果たす度に「気にしなくていいよ」と努めて優しく語りかけた。
――とは言うものの、僕は完全に帰宅する術を失ってしまったから、困っているには困っている。 夜さえ明かす事が出来れば始発の電車に乗って地元へ戻る事は出来るけれど、その夜を明かすという事が甚だ難儀だ。
周辺にはビジネスホテルなども見当たらないし、あったとしても僕の所持金は千五百円しかないから、きっとカプセルホテルにすら入る事が出来ないだろう。
ふと、竜之介か三郎太の家に泊めてもらうという選択肢も浮かんだけれど、現在の時刻は二十三時前。 いくら友達同士で、竜之介や三郎太が僕の宿泊を快く認めてくれたとしても、当然家には彼ら以外の家族も居る訳で、こんな夜分遅くに宿泊させてくれと懇願すれば、彼らの家族に迷惑を掛けてしまうに決まっている。
だからこそ、彼らの友情に付け込んで彼らの家に宿泊させてもらうという甘い考えは今すぐ忘れよう。 ――しかし、だとすると残された道は野宿しか無さそうだ。
幸い、気温はそれほど高くも無く、肌寒いという事もないから、最低限体を凭せ掛けられる場所さえあれば一夜ぐらいは十分越せるだろう。
それこそ、駅の休憩所を利用するのも手だ。 下手に野外で野宿してしまっては暴漢に寝込みを襲われる可能性も無いとは言い切れないし、突然の雨に見舞われれば逃げる術もない。 僕はひとまずの第一案として、駅での野宿を考慮に入れた。
それからお互い口数も少ないままに到着した二十三時前の電車に乗り込み、一先ず古谷さんの最寄り駅へと向かった。
花火大会が終わってから一時間以上が経過しており、すっかり乗車率のピークを超えていた事もあって、僕達は何無く座席に座る事が出来た。 しかし、行きの電車内とは打って変わって、僕達の間にはまともな会話の一つすら交わされていなかった。 やはり彼女は、僕の乗らなければならなかった電車に僕が乗り遅れたのを自分の所為だと思い込んでいるのだろう。
ここまで消沈している古谷さんを見ていると、やはり僕はあの時、薄情だの何だのと御託を並べる前に、彼女の意見を尊重して一人帰路に着いていた方が良かったのかも知れない。 しかし今更後悔したところで、例の四十二分発の電車は既に僕の地元へと進行中。 後悔で時が戻るならタイムマシンなど要らない。 果たしてこれが本当に男としての行動だったのだろうかと、僕はその事ばかり考えさせられた。
「……ユキくんは、これからどうするんですか?」
些か俯き加減に、古谷さんが僕のこれからの大問題を訊ねてきた。
「うん、その事なんだけど、駅に泊まろうかなと思ってるよ」
「駅に泊まれる所なんてあるんですか?」
「いや、宿泊施設は無いよ。 泊まるとは言ったけど、要するに駅の休憩所なりで野宿するって事だね」
「そ、それは危ないですよっ! 最近物騒な事件も多いですし、もし寝てる間に財布とか荷物とかを持っていかれちゃったら大変ですし」
古谷さんは若干声を荒らげて僕の野宿案を真っ向から否定した。 なるほど彼女の気持ちも分からないでもない。 自身が恋慕を抱いている相手が野宿をするなどと言ってきたら、誰だって心配するに決まっている。 もし僕と古谷さんの立場が逆であれば、僕も彼女と同様にしてその案には猛反対するだろう。しかし、現状この状況を乗り切るにはこの案が最適かつ無難なのだ。
幸い、在りし父の時と違って僕は今夏休み中で緊急の用など無く、今日駅で一晩過ごし、明日の始発で地元に戻ったとしても何ら生活に差し支えは無い。 故に、タクシーを利用して目の飛び出るような高額を支払ってまで帰宅する必要も無いから、野宿案は僕にとって最適解なのだ。
その反面、彼女には多大な心配を掛けてしまうだろうけれども、その心労を負わせてしまった償いはまたどこかの場面で埋め合わせるつもりだから、ここは多少無理強いしてでも、古谷さんを説き伏せなくてはならない。
「確かにその心配はあるけど、下手にその辺で一夜を過ごすよりは駅の方がよっぽど安全だと思うんだ。 それに、荷物って言っても僕はこのバッグぐらいしか持ってないし、寝る前にこの中に財布とか携帯を入れて抱えるようにして寝れば盗られはしないと思うから大丈夫だと思うよ。 もちろん古谷さんが心配する気持ちは分かるんだけど、こうなっちゃったのは元はと言えば、あの時古谷さんの言う事を素直に聞いて一人で帰らなかった僕の意地っ張りが原因だから、古谷さんが気にする事ないよ」
古谷さんからの心配を蔑ろにしていない事を伝えた上で、僕は改めて野宿を敢行する決意を彼女へと述べた。 すると彼女は俯いたまま口を噤んでしまった。 花火大会の時には散々彼女に気を遣わせ、そして今まさに夜も寝られないほどの気苦労を掛けようとしている僕の情けない有様に辟易しているのだろう。
やはり即席のデート指南などでは経験の埋め合わせは叶わないのだという非情な現実を突きつけられた。 玲さんがこの話を聞いたら、きっと笑みの一つすら浮かべず、僕を叱り付けて来るだろう。 いや、むしろ僕の方から潔く白状し、思い切り叱ってもらおう。 そうでもしなくては古谷さんに申し訳が立たない。 そうした覚悟を胸中に認めつつ、僕は古谷さんの応答を待った。
「……分かりました。 じゃあ私も、意地を張ります」
ようやく了解の言葉が聞こえたかと思うと、すぐ後に不可解な言葉が聞こえた。
「意地を張る、って?」
「――ユキくん、今夜、私の家に泊まってくださいっ」
「……えっ」
覚えず僕は彼女の顔を見た。 そこには、例の熱情的な瞳を拵えた古谷さんの真面目な顔があった。 僕はその瞳に金縛りにされたよう、まったく目を逸らせなかった。 瞬きすら許してくれない。
がたんごとんと電車が走る。 どくんどくんと胸が鳴る。 僕の心臓の鼓動は今、電車の速度を追い越そうとしていた。




