第二十九話 号砲は耳に響き 1
それから僕達はテーブル席を後にして、花火会場へと向かった。 会場へ向かっている途中、僕は先の場であの男達の態度に竦んで古谷さんを守ってあげられなかった事を深く詫びた。 しかし古谷さんは、
「あの店の人も言ってましたけど、下手に反抗してたら手を出されてたかも知れないって言ってたし、それに、年上の男の人達に囲まれて言い寄られたら誰でも怖くなって当然ですから、ユキくんが謝る事ないですよ」と僕の臆病だったのを正当化してくれようとしている。
確かにそうなのかも知れないけれど、もう少し巧い危機回避方法があったのではと思わずにはいられなかったのも事実で、仮にあの店主の人が現れなかったら、僕は否でも応でも何かしらの対応をせざるを得なかったのだ。
あの店主の人が僕達を救ってくれたのは紛れも無い偶然であり、まったくの僥倖に相違ない。 その幸運が無ければ僕はそれこそ本当にこの身一つであの男達に立ち向かわなくてはならなかったのかもしれないし、あるいは、彼らに脅されるがままに土下座を強要されて屈辱の味を舐めさせられていたかもしれない。 そう考えるだけで、背筋に悪寒が走ってしまう。
実際、あの場で僕が取るべき最善の行動は何だったのだろうかと改めて考えた。
僕一人の力ではどうする事も出来ないのは判り切っていた事なのだから、恥を忍び勇気を振り絞って大声で助けを呼ぶのはどうだったろうか――咄嗟の機が過ぎて、いま冷静に考えてみればそれが一番無難だったのかも知れない。
しかし、義を見てせざるは勇無きなりという言葉を体現するが如く、あの時の僕の心に勇気なるものは一分たりとも備わっていなかったから、あの場でその行動を思いついていたとしても、きっと実行されずに頓挫していただろう。
声を出せないとなると、あとはその場から逃げ出すという回避手段しか思い浮かばなかったけれど、僕は隣の男に肩を捕まれていて思うように身動きが取れず、古谷さんの両隣にも男達が居座っていたから、僕が隣の男を出し抜いて立ち上がれたとしても、古谷さんの両隣にいる男達が僕の不審な行動を察知し、古谷さんに近づけさせてはくれなかったろう。
――こうして改めてあの場面を思い起こして見ても、僕があの場をどうにか出来るという映像が全く思い浮かばない。 結局僕が今更過去を顧みて、ああ言えば良かった、こうすれば良かったと案を巡らせたところで、あの場を丸く収める事など出来やしなかったという現実を自分自身に突きつけているだけだった。
なるほど古谷さんや店主の人が言っていた通り、下手に手を出さずに怯え竦んでいる事が正解だったのかも知れない。 それでも僕が過去の行動を省みてああすれば良かったこう言えば良かったと後悔してしまったのは、きっと僕が愚鈍の半間だからだろう。
そうして僕が俯き気味に歩いていると、突然上空から重く乾いた破裂音が何度か響き渡った。 もう花火は始まってしまっていたのかと、僕は俯けていた顔を仰向かせて夜空を見上げた。 しかし花火はまだ見えていない。
「もうすぐ始まるみたいですね、花火」
先の音を聞いた古谷さんが迷い無くそう言った。 彼女はあの音の意味を知っているらしい。
「さっきの音だけ花火みたいなのが、開始前の合図なの?」
「ですね。 あれは号砲花火っていう音だけの花火で『これから花火が始まります』っていうのを来場者に知らせてるんですよっ」
「へぇ、知らなかったよ。 よくそんな詳しい事知ってたね古谷さん」
「……実はお父さんの受け売りで、去年私も花火会場に着く前にこの音を聞いて『もう花火始まっちゃったの?!』って慌ててお父さんに聞いたら、私がさっき言った事を教えてくれたんです。 その事を知ってた姉は、私の慌てっぷりを見て散々爆笑してましたけどね」
「でも、一年前の事をさらっと説明出来るんだから、その知識はもう古谷さんのもので間違いないでしょ。 それにしても、……ふふっ」
号砲とやらを花火と間違えて慌てふためく古谷さんの姿が容易に想像に見て取れたから、僕は覚えず失笑をこぼしてしまった。
「ん、どうしたんですかユキくん」
僕の唐突な失笑に気が付いた古谷さんが、僕の笑いの原因を探ろうとしている。
「いや、その時の古谷さんの慌てっぷりを想像しちゃって、つい――ふふっ」
「――っ!! 何想像してるんですかユキくんっ! そういうユキくんだってさっきあの音を聞いた時に結構あたふたしてたじゃないですかっ!」
「え、そうだった? でも、古谷さんほど慌ててはなかったと思うけど」
「何で見てもないのに分かるんですかっ!」
「何となく、かな?」
「もうっ、ユキくんってば。 ……でも、やっとまともに笑ってくれましたね」
「えっ?」
思わず僕は古谷さんの顔をまじまじと見つめた。
「あの男の人達に絡まれてから元気が無かったので、もしかしたらまだあの時の事を引きずってるんじゃないかって思ってたんですけど、もう、大丈夫そうですね」
そう言い終えた後、古谷さんはにこりと微笑んだ。 どうやら僕はまたもや古谷さんに気を遣わせてしまっていたらしい。 古谷さんも僕と同程度の恐怖を味わっていた筈なのに、むしろ気を遣わなければならなかったのは僕の筈なのにと、僕はたちまち忸怩の念に苛まれた。
今ここで僕の男の容を貶める事は容易い。 けれども、それをしてしまっては今まさに始まろうとしている花火を心から楽しめなくなってしまうだろう。 だから今は敢えてその事に対し言及はしなかった。
罵詈雑言なら後でいくらでも聞いてやる。 その上で素直に受け入れてやる。 だから今だけは僕の男として情けないのを見逃してくれと、僕は私に懇願した。
――返事は無かったけれど、罵倒も無かった。
「……うん、僕なら大丈夫だよ。 それじゃ、花火の始まる前に会場に行こうか」
「はいっ」
花火はまもなく打ち上がる。 僕の心も浮き上がる。 そうして眺めた火の花は、夜空に煌々輝いて、僕と彼女を照らすだろう。




