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そうして君は僕を知る  作者: 琉慧
第一部 僕と私(ぼく)
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第九話 接触

 その言葉はおよそ日常的に語られる名詞などではなく、普段耳に聞き慣れない言葉であったが為に戸惑いを見せずにはいられなかったけれど、私はその言葉の意味を確かに知っていた。


 トランスジェンダー。 

 LGBT――いわゆるセクシュアル・マイノリティーと呼ばれる性的少数者の総称であり、その四つのアルファベットの内の一つである『T』が、今まさに彼が発言したトランスジェンダーの頭文字となっている。 かく言う私もその名詞の意味を知ったのはここ数年の内の事だったのだけれど。


 始まりはテレビで流れるニュースから。 聞き慣れない、見慣れないアルファベット四文字の羅列を耳に、目にして、性差別がどうのこうの、当事者がどうのこうの、しまいには法的権利がどうのこうの。 今ひとつ要領をつかむ事が出来ず、はて何のことやらと首をかしげていたのも束の間、数ヵ月後には学校でそれ(・・)に関する特別授業が開かれ、はてなと傾げていた首はたちまち首肯しゅこうへと変化していた。 その中でも私が一際興味を抱いたのが『T』、トランスジェンダーだった。


 LGBTの『T』であるトランスジェンダーとは、生来生まれ持った "からだの性別" と、自身の内に持つ "こころの性別" の不一致を抱えている人たちを指す言葉であり、トランスジェンダーという言葉が世に浸透する以前より周知されていた性同一性障害が『疾患』すなわち医師に診断される事によって初めて認められる症状なのに対し、トランスジェンダーは当事者の自覚を介し、己が己を認知させる『自認』というかたちで決定付けられる。


 この二つの症状は一見類似しているように見えて、その実はまるで異っている。 自らの性を医療に頼ってでも変えたいという性同一性障害者とは違い、必ずしも性転換を望んでいる訳ではなく、けれど身体と心の性別の不一致を覚え、苦悩しながらもその矛盾を受け入れ乗り越えていこうとする自覚のある人々がトランスジェンダーであり、『乗り越える』という意を含む "TRANS" の名を冠しているのも、そうした背景による影響と言えるだろう。 私もこの観念を知った時は、思わず感嘆を漏らしてしまいそうなほどの衝撃を受けたものである。


 しかし、未知の観念とは如何いかんとも受け入れがたいものだ。 私はこの世界に性別は二つしか無いと思っていて――いや、思い込んでいただけなのかもしれないけれど、それが突然三倍増、二つから六つになってしまったのだから、しかるべくして思考の混乱は訪れたと言っても差し支えないだろう。


 ただ、一度受け入れてしまえば存外すんなりと認められるものなのだ。 あぁ、そういうのもアリだったんだな、と。 だからこそ私は彼の言葉に驚かされはしたものの、例によってその事実を受け入れる事は容易たやすかった。 しかし、


「……」


 絶句。 掛ける言葉がまるで見つからなかった。 普段なら調子の乗ったおちゃらけ心が舌を走らせてくるだけに、彼と私との間に生まれた重苦しい沈黙は、ただただ私の心に無言で爪を立て続けている。


 何と言えば、いいのだろう。 『そうなんだ』と明るく追従してみようか。 それとも、『そうだったんだ』と暗く悄然しょうぜんとするべきところなのか、あるいは――


「どうして君は、そう思うようになったの?」


 追求、そして傾聴けいちょう。 私はその答えを選んだ。 いえ、選んだというよりは、初めから選択肢はそれしかなかったのだと気が付いた。 私は彼に古傷を見せてくれと懇請こんせいし、そうして彼は私に応えてくれた。 従って私も知らなければならなくなったのだ。 彼の心の内を。


 だから今はただ、知る事だけにのぞもう。 邪推などかなぐり捨てて。

 答えなど、あとからいくらでも付いてくるのだから。




「どうして君は、そう思うようになったの?」


 泰然たいぜんとした態度で、玲さんは僕にそう言った。 聞く耳さえ持ってくれなかった『あの時』とは違い、彼女はぼくを知ろうとしてくれている。 それが嬉しくて、たまらなくて、けれど、恐ろしくさえもあった。


 今になって僕は、怖気おじけづいている。 ぼくの事は絶対に誰にも話す事は出来ないと心に誓ってはいたけれど、その反面、心のどこかでは機会さえあればぼくの事を誰かに知ってもらいたいと願っていた。 そして今こそがその機会とやらなのだろう。 しかし、いざ話すと決めた僕の心は臆病風に吹かれている内にすっかり冷え込んてしまった。


 僕は自分がトランスジェンダーである事を玲さんにカミングアウトしてしまった。 もう、後には戻れない。 だから僕は、彼女にぼくを語るしか無かった――はずなのに僕は何故、今更になってこうまで怯えてしまっているのだろう。 つぐみ切った口は一向に一文字を解こうとせず、心の底から沸々と沸き上がる、恐れとも不安とも形容しがたい念は身体の隅々を血流の如き馴れ馴れしさで駆け巡り、やがて僕の心身を完膚無きまでに支配した。


 いっその事、形振なりふり構わずにこの場から逃げ出してしまいたいとさえ思った。 いざ話したはいいけれど、またぼくという存在を拒絶されるかもしれないと勘繰ってしまうと、否が応でもそうしたくなってくる。 むしろ、僕の臆病は僕の精神保持の為に正当な働きをしていると評価してもいい。 それほどまでに僕は過去の古傷、所謂いわゆるトラウマというものにずっと苦しめられてきた。


 当時負った傷はこれっぽっちも癒える事も無く、誰にも傷の事を言えないまま僕はずたずたに引き裂かれた心をひた隠しにし、自分自身すらも誤魔化して生きてきた。 今日という日が訪れるまでは。 けれど、またとない機会を前に僕の口から未だにぼくが語られる事は無く、玲さんも同様にして一言も発する気色は無い。 それからしばらく沈黙が続いた。


 こち、こち、という掛け時計の針の音だけが規則的に時の経過を主張している。 神経を尖らせている一秒というものはこれほど永いものなのだろうかと、自身の持つ時間の観念に一石を投じた。 試しに針の音を十ほど数えてみる。 ――なるほど普段より永いように思われた。 一秒の永いのを嫌というほど味わいながらじっと目を伏せていると、ふと目の前の何かが移動したような空気が僕の肌に流れてくるのを感じた。


 おもむろに顔を上げると、いつの間にか立ち上がっていた玲さんが僕の左隣まで歩いてきて、その場所に横座りで腰を下ろした。 そうして彼女は首を回してこちらへ顔を向け、至って柔和な口調で、


「無理、しなくていいよ。 君のペースでいいから、ゆっくりでいい。 私はここに居るから」と僕に囁いた。


 その瞬間、僕ははっと我に返ったような心持を得た。 彼女の悠然とした対応に、僕は安堵を感じている。 接触こそしていないけれど、僕の左側には今、安らかで慈悲に溢れた確かな温度があった。 僕の臆病は彼女によって振り払われた。 もう僕の手に、僕の心に、震えは無い。


 そうして僕は、いよいよ彼女に語り始めた。 ぼくについて――

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