第二十七話 終着駅でさようなら 4
あの時、古谷さんは俯いた状態から頭を上げた。 その勢いで前髪が疎らにばらけて、僕はそこで初めて髪越しではない彼女の瞳と目を合わせた。 彼女と目を合わせていた時間は多めに見積もって、たかだか三、四秒の僅かな時間である。 しかし、その短時間の間、古谷さんは瞳も瞼もぴくりとも動かさず、僕の目をじっと見続けていた。
誰かと話す時や誰かの話を聞く時はしっかりと相手の目を見る。 という教えは誰しもが幼い頃から親や先生に口うるさく教授されるコミュニケーションマナーであるけれども、人の目を見続けるという行為は、意識していても中々持続できないものである。 しかし、だからと言って意固地になって相手の目を直視し続けるのが良いという訳では無いのも事実だ。
『目は口ほどに物を言う』『目は心の鏡』という故事が全てを語っているように、目とは自分が思っている以上に情報を伝達出来る器官だ。 しかし皮肉にも情報を伝達し過ぎてしまうが故に、過度の直視はいわゆる『睨みつけ』として相手に受け取られてしまう危険性もある。
それなればこそ、相手と目を合わせるにしても数秒に一度は適度に目線を動かすとか、相手の顔を見続けるにしろ直接目を見続けるのではなく、鼻や口元などに視線を落とすといった方法を取るなどして睨みつけと思われる危険性を回避するものである。
それらの留意点を踏まえた上で、あの時の古谷さんの視線を改めて思い返して見ると――些か直視が過ぎるのではと感じずにはいられなかった。 ただ、彼女のそれは睨みつけなどの不快な視線ではなく、至って真摯な眼差しだったという事は伝えておきたい。
つまり、古谷さんが先述した通り、彼女は相手の目をじっと見続けてしまう癖があるように思われる。 しかし、その癖と前髪とがどう関係していたかまでは分からなかったから、それは彼女の口から直接聞いてみる他に答えを知る方法は無いだろう。 僕は「そうだったんだ」と相槌を打った。 すると彼女は「はい」と応答した後、再び語り始めた。
「それで、その癖のせいで私は昔からあんまり良い印象を持たれてなかったみたいで、影で同級生に『あいつと喋ってると、じっと見られて気持ち悪い』とか言われたり、上級生にも『なに睨んでるんだ』って言われた事もあって、いつの間にか私は、誰かと目を合わせるのが怖くなってしまっていたんです」
なるほどと、僕は彼女に無言で相槌を打ちながら、彼女の癖と前髪の関連性についておおよその推測を打ち立てた。
「でも、学校みたいに人のたくさん居る場所で行動している以上、まったく誰かと顔を合わせない訳にもいかないですよね。 だったら私が相手の目をじっと見ているのを分からなくすればいいんだって思い始めて、それから前髪を意図的に伸ばし始めたのが、あの髪型をするきっかけだったんです」
「そういう経緯があってこその、あの髪型だったんだね。 それを最近まで続けてたって事は、それなりに効果はあったって事?」
「はい、前髪を伸ばして目を隠すようになってからは、じっと見られるとか睨んでるとかは言われなくなったので、ある程度の効果はあったんだと思います。 でも今度は逆に、髪で私の目が隠れているから『なにを考えてるのか分からない』とか『性格が暗い』とか言われ始めて、良い事ばかりでは無かったです」
なるほど先述した通り、目とは様々な情報を瞬時に相手へと与える器官であるから、その目が何かしらに遮られて見えなくなってしまうと、本来得て然るべき情報が一切入手出来ない事になるから、当然そのぶん他人とのコミュニケーションは取り辛くなってしまう。
古谷さんもそのデメリットを理解していない訳でも無かっただろう。 けれども彼女は余計な争いを生まない為に敢えて自身の癖を封じて目による情報を前髪で遮断し、先に彼女の語った『感情が読めない』だの『暗い』だのという同級生からの陰口を被りながらも、あの髪型を維持してきたのだろう。 ことによると、古谷さんの最近までうまく友達が作れなかった理由は、その癖と髪型の所為だったのかも知れない。
それを思うと平塚さんは、そうした古谷さんの外見を真に受けて彼女を評価したりせず、本来の彼女が持ち合わせている積極性だとか、第一に相手の事を思いやる優しさだとかを潜在的に見抜いた上で彼女と親密になったのかも知れないと思うと、改めてこの二人が友達同士になれて良かったと心から思える。
そう言えば玲さんも、初めて古谷さんと食堂で会したあの時、古谷さんの前髪について言及していたけれど、ひょっとすると玲さんはあの時から彼女の前髪に隠された真意に気が付いていたのだろうか。 ――いや、それは有り得ないだろう。
接触らしい接触はしなくとも、数ヶ月間同じクラスで古谷さんと顔を合わせていた平塚さんとは違い、玲さんは食堂で初めて古谷さんという存在を知った訳であり、もしその短時間の間に古谷さんの前髪の真意について悟っていたものならば、彼女は本当に探偵の道に進んだ方が良いだろう――いや、そこまで飛躍した洞察力は最早エスパーの類だ。 だからあの時の玲さんの古谷さんに対する前髪への言及は、まったく玲さんの恣意的な発言に過ぎないだろう。 さすがにこじつけが過ぎると、僕は僕の行き過ぎた思考を律した。
「けど、その前髪を切ったって事は、その癖が治ったって事?」
そして以前のように前髪で目を隠せない以上、そう考えるのが妥当だった。 しかし古谷さんは無言でかぶりを振って、
「癖は、治ってません。 そもそも私のこれが本当に癖なのかも分かりませんし、もしかしたら病的な問題なのかも知れません。 でも、癖は自分の気持ち次第で治るって言いますし、病なら原因を知った上で改善していけばいい。 ――私はもう、自分の弱いところを隠したくないんです」
そう言い終えた後、古谷さんはおもむろに僕の方へ顔を向けて目線を合わせてきた。 確かに彼女のそれは治っていないらしく、まったくぶれる事の無い真っ直ぐな褐色の瞳が、僕の目を完全に捉えている。 不思議と息が止まっていた――いや、息をする事さえ止められているのだ。 それだけ彼女の視線は奥深く、純真だ。 だから僕は覚えず、彼女から目を逸らした。 いいえ、逸らさなければならなかった。
"――私はもう、自分の弱いところを隠したくないんです"
その言葉を聞いた時、久しく忘れていた、僕の心に刺さったままの楔の痛みを思い出した。 間もなく、電車は発車した。




