第二十五話 気付いてしまった気持ち 3
私という光を失くした彼はきっと、歩みを止めてしまうだろう。 当然だ。 文字通り一歩間違えれば奈落の底に滑落するやも知れないほど歪で狭窄な道を、明かりも無しに歩ける者など居やしない。 もしそんな道を光源も無しに歩く事の出来る怖いもの無しが居たとしても、その者は勇敢でも何でもなく、ただの生き急いだ大ばか者だ。
私は彼を大ばか者などにしたくは無い。 だから私は彼の道標を続けなければならない。 その道標が迷子に恋慕の情を抱くなど蒙昧も甚だしい。
今は曖昧だけれども、いずれこの感情は容を成して私の前にきっと現れる。 そうなる前に、この感情は今ここで捨て去るべきなのだ。 だから――
「っ……!」
私は自分の中に育ちつつあった彼に対する好意の念を払うべく、両手で挟み込むように両頬を思い切り叩いた。 べちんという私の顔を叩いた音が部屋中に響き渡ったと同時に、たちまち両頬がひりひりしてくる。自分でも予想以上の痛さに、思わず涙が滲んだ。
ちょっと強く叩き過ぎたかなと後悔しながらしばらく痛みを堪えていると、テーブルの上に傾いたままのスマートフォンが振動し、着信のメロディが鳴った。 私はおもむろにスマートフォンに手を伸ばし、着信の内容を確認した。
[返事が遅れてすいません。先輩の着信を受けた頃にはもう友達と駅へ向かってしまっていたので、折角のお誘いなんですが今回は止めておきます]
着信は彼からで、メッセージは以上だった。 私は何度かそのメッセージを読み直した後[それなら仕方ないよ、気にしないで。]と彼に返信してからディスプレイをオフにして、スマートフォンをテーブルの上に置いた。
彼は今日、私の家には来ない。 その事実を受けてほっとしている自分がいる事に気が付いたのは、ディスプレイをオフにしてから間もなくの事だった。 今日彼が私の家に来てしまっていたら、きっと私は以前の気さくな風には話せなかっただろう。 彼もまた私に気を遣って、普段より口数が減っていたに違いない。
そして、彼が私の家へ来ない事にどこか淋しさを感じていたのも事実で、その感情は恐らく、私の中に育ちつつあった彼への好意から生まれてしまったものだろう。 だからこそ私は、今日彼が家に来なくて良かったと安堵しているのだ。
今日、初めて知ってしまった、彼に対する好意の萌し。 それを受け入れて間もない不安定な気持ちで彼と向き合って、平然としていられる自信が私には無かった。 この気持ちが落ち着くまでは、彼とまともに目も合わせられないかも知れない。 そんな状態で彼と二人きりになってみろ。 私は今度こそ、彼と一線を越えてしまいかねない。 故に、彼が私の誘いを断ってくれた事は私にとってまさしく幸いに違いなかった。
そうして、彼が私の家に来ない事に改めて安堵していた矢先、またスマートフォンの着信音が鳴り響いた。 相手は彼である。 てっきり彼との会話はあれっきりで終わるだろうと思っていただけに、まだ何か言いたい事があったのだろうかと訝しみながら再度スマートフォンに手を伸ばし、メッセージを確認した。
[また何かの機会があればお邪魔させてください。あと来週の土曜、いよいよ古谷さんと花火大会に行くんですけど、ああいう場で男が女性にすべき事とか、これだけは止めておけって事があったら教えて欲しいんですけど、また時間がある時に教えてもらってもいいですか]
私はそのメッセージを読み終えた後、微笑をこぼした。 理由は単純、避けられていると思っていた彼に久々に頼られて、嬉しさを堪え切れなかったのだ。
[もう来週なんだね。いいよ、教えてあげる。その代わりそれが必ずしも正解とは限らないし、それを実行してうまく行かなかったとしても私のせいにするのは無しだからね?]
心持軽くなった指先をすいすい動かしながら、私は自身の発言に対する予防線を張りつつすぐさま返信した。 すると、間もなく返事が来て、
[分かってますよ。でも先輩はそういう場の経験多そうだし、間違いって事は無いでしょ。頼りにしてますよ]
彼の勝手な想像で私の人生経験を決め付けてきたものだから「……まったく、またいい加減な事言ってくれて。 やっぱりキミは生意気だよ」と、思わず彼へ悪態をついてしまいながらも、未だ私の微笑は絶えなかった。
彼が私を避けているなんてのは所詮私の行き過ぎた思い込みに過ぎず、私の彼に対する好意の芽も萌す前に摘み取れば済むだけの事。 何もあそこまで悲観する必要など何処にも無かったという訳だ。
――そう、これでいいんだ。 私と彼との関係は。
私達はこれからも交わる事の無い平行線を描き続けていれば良い。 そうすれば、彼はきっと望むべき未来に辿り着く。 そうして彼が未来への道のりを歩み始めたのをこの目で確認した後、私は彼の線から徐々に角度を広げて、彼にも気づかれぬ間にフェードアウトすれば良い。
彼の未来に、私など必要無い。 未来の私の傍に、彼が居てはならない。
だって私にはもう、誰かを好きになる資格なんて無いのだから。




