第二十五話 気付いてしまった気持ち 1
「……遅い」
エアコンによってすっかり冷やされた自室で、私はテーブルに置いたスマートフォンの画面とにらめっこをしながら、思わずぽつりと呟いた。
私は学校から帰った後、暇だったら遊びに来なよという誘いのメッセージを彼に送った。 比較的返事の早い彼の事だから、メッセージを送った当初はSNSの画面も閉じずに彼からの返事を待っていた。 果たして一分と経たずに既読が付いた。 しかし彼はそれから返事を一向に寄越さなかった。
ひょっとしたら、久々の登校で友達との会話に花が咲いていて、返信が遅れているだけなのかも知れないと勘繰っては見たけれど、メッセージを送信後たちまち既読が付いた事を思うと、彼は私のメッセージを受信して間もなく携帯電話を遠慮無く操作出来る状態にあったという事。 即ち、とりわけ誰とも会話なり行動なりをしていなかったという事になる。
その直後に友達かクラスメイト辺りに捕まって、返信し辛い状態になってしまったと考えるのが最も妥当だろうけれど、これまで私の誘いをほぼ二つ返事で受けてきた彼の付き合いの良さを知っているからこそ、今回の彼の返事の遅さに訝しみを抱いてしまっているのだ。
彼の性格上、既読を付けてしまったからにはすぐさま返事をしなければならないという使命感に駆られているであろう事は間違いない。 だけれど彼がその使命を放棄してから、もう二十分が経とうとしている。
よもや私を無視しているのではと、思わぬ方向に舵を切り始めた私の脳内だったけれど、それは有り得るはずが無いと、私は私の突拍子も無い予想を真っ向から否定した。 彼は私にとって生意気ではあるけれど、不義理ではなかったからだ。 彼が不義理を働くような不届き者であるならば、私などからはとうの昔に離れているだろう。 それこそ、早ければあの食堂の一件で私は彼に愛想を付かされていたっておかしくなかったはずだ。
けれどあの一件やその他諸々の私の勝手極まりない言動を目の当たりにしてもなお彼は、私の事を慕ってくれている。 だからこそ私は彼が、無視などという人間界における最低最悪のコミュニケーション方法を取る筈が無いと信じて止まなかった。
彼が無視などしないという事は改めるまでも無く分かっている。 分かっているけれど、では彼の『何』が、返信を遅らせているのだろうという答えを再度探って間もなく、私の脳裏に一つの言葉が浮かび上がった。
躊躇。 その言葉が私の思考を支配したと同時に、だから彼は中々返事を送ってこないのだなと一人納得していた。 彼が返信を躊躇っている理由、それは恐らく、例の出来事の所為に違いない。 例の出来事とは、終業式の日に起きた――いえ、私が彼に引き起こさせたキス事件の事だ。
あの日から彼は、何だか余所余所しくなった。 と言っても、彼とはあの日以来直接会っておらず、SNSのメッセージのやり取りでしか彼の心情を量る事が出来ていないから、もしかしたらその違和感も、私の勝手な思い込みによる勘違いなのかもしれない。
しかし、その違和感が絶対に勘違いだと言い切れない歯切れの悪さが私を苛めているのも事実で、実際彼はあの日以降、私とのSNSのやり取りの際の口数が減ってきているのだ。
以前には子供染みたやり取りを一時間以上続けた事もあった。 [こういう場合、男ならどうするべきでしょうか]と、彼の男の容についての相談も幾度と無く受けた事がある。 しかしあの日以来、何でも無い会話は思うように弾まなくなり、彼から相談を持ちかけられる事もめっきり無くなってしまった。
そうした背景があったからこそ、私の日常の一部となっていた彼との交流を崩壊させつつあるのがあの日の出来事だと、私は結論付けていたのだ。
いや、実際、避けられて然るべきなのだろう。 今はまだ女性としての影が強く残っているからはっきりと相手に伝えられないだけで、彼にはずっと前から意中の相手が居る。 それにもかかわらず私は思わせ振りな態度で彼を唆し、挙句、本当に彼にキスをさせてしまった。
彼はあのキスをファーストキスと言っていた。 ファーストキスとは強烈な刺激であるから、彼はその記憶を呼び起こそうとする度に、私の顔を脳裏に浮かべてしまうだろう。 私だって、未だにファーストキスの記憶を思い起こす度に相手の顔が鮮明に浮かんでくるのだから、彼が同様の現象を体験しているのは間違いないだろう。 その現象が彼と私との間柄に軋轢を生じさせている事は確かであった。
彼のファーストキスの記憶は、あの子とのモノでなければならなかったはずだ。 なのに私は、上書きの効かないたった一度きりの記憶を私との記憶として彼に植え付けてしまったのだから、それこそ彼から無視されようとも、私には彼を非難する筋合いすら無いのだ。
はぁ。 と深い落胆の溜息を付いたと共に、今更になって私は、何故あの時彼にキスを迫らせるような態度を取ってしまったのだろうと、今一度考えた。
第一に出てくるのはやはり、あの時彼に答えた通り、彼の『男』を試したかったという無難な答えだった。 本来ならば私は、答えが出た時点でその思考を止めるはずだった。 しかし、私は尚もその思考を止めず、更にその上で私の深層に眠るであろう真意を掘り下げ続けた。
「……」
そうして、深層の果てに見つけ出した答えは、酷く醜いモノだった。
"私が、彼にそうされたかったから"
その答えが私の脳裏を過ぎった瞬間、私はぎりりと奥歯を噛み締めた後、握り拳を作った右手でテーブルを力任せに叩いた。




