第二十三話 それぞれの思い 2
つまり、あの時の彼の行動の根源に、男の心が関与していたかどうかは定かではなく、そればかりか彼は女性の心のまま私にキスをしたという可能性も十二分に有り得るという事だ。
頭の中で、彼の中にはまだ女性色が強く残っているかも知れないと認めた私は、覚えず溜息を一つ付いてしまった。 その溜息は別に、彼に男としての変化が無いのを知った事で生じた落胆の溜息でない事だけは断りを入れておこう。 むしろその溜息は、私が私へ向けて吐いたものだと思ってくれても良い。
――私はこれまで、彼の中に男の容が形成されるよう様々な手段を講じてきた。 それは、彼からの悩み相談を受けての、私から彼へ向けた男としての立ち振る舞いの教示であったり、時には彼の中に眠っている筈の男を目覚めさせる為、彼の目の前で思わせ振りに上着を脱いでみたり、キスを迫ったり、わざとキスを迫られたりもした。
だけれど、あの時の彼の、男としてか女としてかはっきりとしない不可解な言動を見るに、私のそれらの行為は彼に然程の影響も与えていなかったように思えてくる。 しかし、まるで効果が無かったとは思いたく無かった。
実際、彼は私と出会ってからの二ヶ月間で見違えるほどに成長したと思う。 彼と出会って間もない頃は、それはもう擁護のし様が無いほど、彼は女性に対するデリカシーが欠如していた。
ただ、デリカシーが欠如していたからと言っても、女性の容姿を貶したり、本人の目の前で悪口を言ったりするというタイプのデリカシーの無さではなく、彼の場合、通常ならば異性相手に憚って聞けないような心情問題に平気で踏み込んできたり、自分が男性である事すら忘れ、女性として女性に接しようとするような、いわゆる男と女の線引きが出来ないタイプのデリカシーの無さだったのだ。
けれど、私が彼のデリカシーの無い場面を都度指摘し、是正してきた成果なのか、近頃私は彼の女性に対する立ち振る舞いに関しての小言を吐いた覚えが無い。 そればかりか、私の中の彼の代名詞でもある「生意気」さえもが彼から消失しかかっているような気さえする。 だからこそ私は彼の成長を認めているし、その成長を間近で見てきたからこそ、私のこれまでの行為は無駄では無かったのだと安堵し、素直に喜ばしいとも思える。
けれども、彼の成長の果てに、彼の望む男の容は在るのだろうか。
彼が道を間違えた時は私が彼を軌道修正させてやると豪語はしたけれども、私が彼に歩ませようとしている道は、果たして彼にとっての正解なのだろうか。 私は、それが心配で堪らなかった。
確かに彼は変わりつつある。 それは最早私が認めるまでもなく、彼に好意を抱き続けている古谷という子や、彼と親しい友人の一人であろう双葉の弟くんでさえ薄々彼の変化に気が付いているだろう。 ただ、その変化の中に彼の形成しようとする男の容が存在しているかどうかが問題なのである。
ひょっとすると彼の成長や変化は、私の目に都合良くそういう風に映じているだけであって、本来の彼の女性としての心は、私と彼が出会う以前から何も変わっていないのではないだろうか。 もしそうだとしたら私は彼を軌道修正させるどころか、取り返しのつかない道へと誘っているのではないのだろうか。
――私は今になって、彼と接する事が怖くなってしまっていた。
私は彼が想像しているよりずっと、LGBTについて殆ど何も知らない。 それこそ、彼の相談役を引き受けたからには多少の知識は必要だろうと、彼と出会う以前よりはLGBTについての関心も持ったし、どうしても自分の中で答えが出せない時はインターネットで資料を探して情報を得たりなど、なるだけ彼の力になれるよう私なりに努力はしているつもりだ。
けれど、いくら努力したところで所詮私はセクシュアルマジョリティ。 彼らセクシュアルマイノリティの気持ちに成り切って物事を考える事などは到底不可能だ。 そうした私の半端な意見を、彼が別段の疑いも無くすんなり受け入れているという現状も実に危うい。 即ち、私の意見が今後の彼の未来をも左右してしまうかも知れないという事である。 その事実を目の当たりにした私の心は、ひどい苦痛を覚えた。
私はまた、後先もまったく考えていない自分勝手な行動で誰かの人生を壊そうとしてしまっているのかも知れない。 急に寒気がした私は、身を竦ませるようにして腕を擦った。 冷房が利き過ぎているからなどではない。 私は私が過去に犯してしまった取り返しの付かない過ちを思い出して、震えていたのだ。
一度ならず二度までも、私は誰かを傷つけた上で壊そうとしているのだろうか。 もし彼さえもそうなってしまったら、私はもう、この世界で生きてゆく資格を剥奪されたも同然の罰を自分自身に与えなければならなくなるだろう。
――だからこそ私は、二度と過つ訳にはいかない。
今の彼に未だ男の容が宿っていなくとも、手遅れだという事は無い。 私に与えられた猶予はまだ残されている。 いくら彼と接するのが恐ろしくなったとしても、今更私の臆病を盾にして彼を見放してしまったら、それこそ私は二度と私を許せなくなるだろう。 だから私は彼を決して見捨てたりはしない。
何、怖いのは私だけじゃないだろう。 恐らく彼も――いえ、きっと彼の方が私より何倍も何十倍も怖いに決まっている。 彼はこれまで足元も満足に照らせないまま、いつ足を踏み外して滑落するかも定かではない道なき道を、たった一人で歩んできたのだ。 彼のこれまでの苦悩を私なりに推し量っただけでも、神経が擦り切れてしまいそうになるのだから、怖くない訳が無い。
そして私が彼の道なき道を照らす光なのだとしたら、尚更私は彼の道を照らすのを止めてはいけない。 たとえ私の照らす道の先に彼の目指す男の容が在るという保障が無くとも、私は彼の歩む道を照らし続けなければならないのだ。
――もしそれでも、私自身が光を喪ってしまったその時は、一寸先も分からない真っ暗闇の中、彼の手を握って二人しておっかなびっくりしながらでも進んでやる。 これは私の覚悟でもあり、責任でもある。
私は擦っていた腕に爪を立て、私の弱気を挫いた。
『玲ー、もうすぐお昼ごはん出来るから下りて来てねー』
部屋の扉の向こうから、私を呼ぶ母の声が聞こえた。 その声を耳に認めた私は先程まで思い巡らせていた例の件をたちまち思考の外へと放り出し、エアコンを切ってから一階の居間へと降りた。
居間へ入ると、テーブルの上には既に昼食が用意されていた。 今日の昼食は、いつぞやに私が彼に振舞った冷製のたらこパスタである。
「あれ、まだたらこ残ってたんだね。 このまえ作ったので無くなったかと思ってた」
「整理がてらに冷凍庫漁ってたら奥の方に一腹無いくらいのやつがまだ残っててね、一応それが最後かな」
「えー、そんなの食べて大丈夫? 私お腹弱いの知ってるでしょお母さん」
「大丈夫大丈夫。 変な臭いもしなかったし、お母さんも味見したけど味もしっかりしてたから平気だって」
「まぁ、臭いがしてなかったなら大丈夫かな。 んじゃ、いただきまーす」
たらこの消費期限を気にしつつ、私はパスタを頬張った。 すると不意に私の頭の中にとある言葉が過ぎった。
"……強いて言うなら、昼に食べたたらこの味がしました"
それは、あの時彼が述べた、ファーストキスの味の感想であった。 私は思わず笑ってしまいそうになるのを必死に堪えた。
彼があんな面白い事を言うから、これからはたらこパスタを食べる度に思い出して笑ってしまいそうで怖い。 けれど、思い出すのは何も彼のファーストキスの味だけではない。 ただ――
私の数年振りのキスの味もたらこ風味だったという事は、彼には言えない。




