第二十三話 それぞれの思い 1
彼が夏休み前に私の家を訪れてから早や一週間が過ぎようとしていた。 私は今日も自室で机に向かい、夏休み前に課された宿題をこなしている。
どちらかと言うと私は、厄介なものは真っ先に片を付けるタイプの人間だ。 夏休みが始まってからというもの、私は何処へ行くでもなく、誰と遊ぶでもなく、朝から晩までわき目も振らず一意専心ただひたすら宿題に手をつけていた――つもりだったけれど、わき目も振らずに、という表現は少し大袈裟だったかも知れない。 というのも、
"……僕も、嫌では無かったですよ"
少しでも集中力を途切れさせてしまう度、私の思考に憚り無く現れるあの時の彼の言葉に私は毎度宿題の手を止めさせられていたのだ。 今日も今日で、ようやく全ての宿題が終わりかけていた頃を見計らって、その言葉は私の頭の中をぐるぐると無作法に回り続けていた。 まるで、私を翻弄するかのように。
「はぁ、駄目だ」
一度翻弄されると、しばらくは集中力が戻らないから困りものだった。
ふと、部屋の掛け時計で時刻を確認してみると、今は午前十一時半。 宿題を始めたのが八時半くらいだったから、三時間近くは宿題をやっていた事になる。 どうりで集中力も途切れる筈だと、私は私の集中力低下の原因を知る事によってその状態を容易く受け入れた。 同時にお腹がぐぅと鳴る。 しかし昼食の心配は要らない。 あと三十分もしない内に母が昼食の出来たのを私に伝えにくるだろう。
平日は父母共に二十時過ぎまで仕事で、一緒に夕飯を食べる事が出来ない。けれども、母は土曜からは必ず休みで、父も土曜に出勤する日はあるけれど十八時には帰って来るし、日曜は母同様決まって休みだ。 だから土日は母が昼食を振舞ってくれるし、夕飯は家族水入らずで食卓を囲める。 一週間の内で限られている家族との夕食時の団欒は、私にとってのささやかな楽しみでもあった。
そして、今日のお昼ご飯は何だろうと、すっかり勉強の手を止めて、食欲に気をとられてしまっている自分が居る事に気が付いた私は、あわよくば昼前に全ての宿題を終わらせられるかも知れないという目標をあっさり諦め、ノートの上にペンを転がした後、数時間机に向かっていた事ですっかり硬くなってしまっていた上半身を解す為、指を逸らすよう両手を組んで天へ向かって腕を上げながら背筋を伸ばした。
周囲に誰も居ないのを良い事に、私は「ん~」と気の抜けただらしのない声を漏らしながら身体を解し続けた。 学校では人目があるから背筋を伸ばすにしても声は抑えているけれど、こうして声を出す事によって身体に溜まっていた疲労がいつも以上に取れているような感覚がある事を思うと、背筋を伸ばす事で無意識の内につい漏らしてしまいがちな怠惰な声にも相応の意味はあるのだなと、人体の神秘の片鱗に触れたような気にもなる。 と言っても、私は人前で声を漏らすつもりはないけれども。
そうして、身体を解し終わって心身共にすっきりした後、私は母が呼びに来るまでの間、ある事柄について向き合う事を決意した。
――私があそこまでお膳立てしたとは言え、まさか本当にキスしてくるなんて。
指で軽く唇に触れながら私が向き合っていたのは、この一週間の内に幾度となく私の集中力を乱してきた、例の件についてである。 彼の男を試す為――あの時私は彼にそう言ったのだけれど、実はあの言葉も半分本当で、半分嘘だったのだ。
確かに私は彼の男を量ったけれど、いくら私が思わせ振りな態度を取っていたとしても、よもやあの彼が、以前私にキスを迫られた時あれほど怯えながら頑なにキスを拒んでいたあの彼が自らキスを迫ってくるなんて事は、恐らくあの高校で誰よりも彼の人となりを知っている私ですら、予想出来なかった。
私が彼にキスを迫ったのは凡そ二ヵ月前だから、その期間中に彼の男としての容がいよいよ輪郭を成してきたと考えるのが妥当ではあるけれども、何故だか私の思考は、その妥当では納得がいかないらしかった。
私の思考がその妥当に懐疑の念を抱いているのも、キスをした後の彼の言葉の内にあった不可解な単語が原因だろう。 あの時彼は、思わせ振りな態度を取る私へキスをする決意に至った理由をこう語っていた。
"玲さんは何の目的でこんな事をしてるのかって知りたくなっちゃって、それで、そのまま好奇心に唆されて、つい、キスしちゃったんです"
彼は、私にキスをした理由として『好奇心』という言葉を使用した。 私はその言葉がずっと胸に引っかかっていて、今改めてその言葉を思い返している内に、彼のキスをした真意に辿り着いたような気がした。
恐らく彼は『男として私という女性とキスをしたかったからキスをした』のではなく『私が彼からのキスを待ち受けているかのような思わせ振りな態度を取る理由が知りたいから私とキスをした』のだ。




