第二十二話 好奇心 16
「私は別に嫌じゃなかったよ。 本当に嫌だったらキミの顔が迫ってる時点で抵抗してただろうし、そもそもあんな思わせ振りな態度すら取ってなかったと思うよ。 ていうか、あからさまにキスを誘った私が言うのもなんだけど、キミこそ本当は私とキスなんてしたくなかったんじゃない? 私はほとんど目を瞑ってて詳しい状況までは分からなかったけど、キミの鼻息が聞こえ始めてからキスまでのあいだ、結構間があったと思うんだけど、それだけ迷ってたか、嫌だったって事だよね」
「……僕も、嫌では無かったですよ。 それに、迷ってたのは、いつもの様に玲さんがからかってるだけだろうって最初は思い込んでて、ある程度顔を近づけた時点で玲さんが僕の行動を制止してくれるものかと思ってたんです。 けど、いくら顔を近づけても玲さんは全然動かないし、本当にからかい目的でこんな事をしてるのかなって段々思い始めて、じゃあからかい目的でなかったら、玲さんは何の目的でこんな事をしてるのかって知りたくなっちゃって、それで、そのまま好奇心に唆されて、つい、キスしちゃったんです」
僕は玲さんとの口付けに対する嫌悪感を否定した後、僕の口付けに至るまでの心境の委細を彼女に聞かせた。 すると彼女は突然くすくすと苦笑を漏らしながら、
「好奇心に唆されてキスしちゃった、ね。 何ていうか、キミらしい理由だなぁ」と言い終えた後、今度は白い歯を覗かせながらアハハと笑っている。 確かに、僕はそれだけの理由で玲さんと口付けを交わしてしまったのだ。 笑われても仕方が無い。 むしろ、結果的に玲さんの謀の内だったとは言え、本来激怒されて然るべき行為を彼女は笑って済ませてくれているのだから、ありがたいとさえ思わなければ罰が当たりそうでもあるので、彼女のからかい混じりの笑みに対しては別段何らの反論も呈さなかった。 そして、それとは別に僕は、先の玲さんのある言葉を反芻し続けていた。
"キミらしい"
僕の覚えている限り、玲さんにそう言われたのは初めてである。 初めてであるが故に、僕はその言葉を心の内で反芻させる度、良い心持を得ていた。 その心は単純だ。 玲さんが僕を『らしい』で形容してくれたという事実は、彼女がそれだけ僕という人間を理解してくれているという事なのだから、嬉しくない筈が無い。 ことによると、玲さんと口付けを交わした時よりも心が躍っているかも知れない。 そうして、玲さんの笑いにつられるよう僕も、彼女と同程度の声を上げて笑った。
「――あ、つかぬ事を聞くけど、キミってこれまでにキスした事あったの?」
一頻り笑い終えた後、玲さんは何の憚りも見せず突拍子も無い事を聞いてくる。 あまりに卒然な質問だったから平静を取り繕う余裕も無く僕は、
「今日のが、初めてでした」と照れ混じりに正直に答えた。
「そっかー、ちょっと悪い事したかなぁ。 まぁ、そう簡単には割り切れないだろうけど、今日のはちょっとした練習って事でノーカウントにしときなよ。 キスって言っても今日のはちょっと唇が触れたくらいだしさ。 キミの本当に心の篭ったキスは、あの子の為に残しといてやりなよ」
玲さんは肩身の狭そうな表情を覗かせながら、今日の口付けは無かった事にしておけと言っている。 僕だって出来る事ならば無かった事にしたいと心より思ってはいるけれども、既に起きた事柄を無かった事になど出来る筈も無く、玲さんは軽い口調でそう言っているものの、僕は今日の出来事を忘れる事など出来ないまま、これからも玲さんと接してゆかなければならないだろう。
今後、玲さんと接する度に僕は、彼女の艶めいた唇に目を奪われ、必然的に今日の口付けを思い出してしまうだろう。 改めて僕は、取り返しの付かない事をしてしまったのだなと自身の軽率を恥じると共に、古谷さんへの背信感を一層募らせた。
「ちなみに、キミのファーストキスのお味はどんなだったの?」
「……強いて言うなら、昼に食べたたらこの味がしました」
「――ぷっ、はははっ! 何それ、ロマンチックの欠片も無いじゃない!」
「し、仕方無いじゃないですかっ! キスする前に乾燥してたら悪いなと思って唇を軽く舐めたらその味がしたんですよっ」
「それにしたってたらこ味はないでしょー。 こういう時は嘘でも『甘い感じがした』とか言わないとさぁ。 せっかくキミを男として見直してたってのに、これじゃまだまだ私離れは出来そうにないね」
最後の最後で失態を演じつつ、結局玲さんとの勝負は、僕のお手付き二回とお口付き一回の都合三回によって、僕の失格負けに終わった。 例の写真は今後も、玲さんのスマートフォンの画像フォルダを暖め続ける事となるだろう。
それから話が一区切りついた午後一時過ぎに僕は玲さんと部屋で別れ、家を後にした。 玄関を出て間もなく、照度の落ち着いた室内から極端に明るい外へ出た所為か、目の奥が数回ツンとした。 外の明るさにも慣れた頃、顔に手を翳しながら目を細めて空を仰ぐと、雲一つ無い青青とした空が、視界の許す彼方まで続いていた。
ふと、背中に視線を感じたような気がして、家の方を振り返ってみると、二階の窓から玲さんが僕を見下ろしていて、僕と目が合うなり、にこりとしながらひらひらと手を振ってくる。 彼女の見送りに応えるよう僕も微笑を浮かべながら一度だけ彼女に向かって会釈した後、僕は駅までの帰路を歩み始めた。
歩の最中、玲さんはまだ僕の背中を見ているのだろうかと少し気になる。 しかし、ここでまた振り向いてしまうと、それは男の行動では無いような気がして、僕はそのまま歩を続けた。 そうして、川沿いの道を進んでいる最中、僕は再び空の青を仰いだ。
何ものにも遮られる事の無い白昼真夏の太陽が、憚りも無く僕を頭上から焼いている。 玲さんという太陽も、僕の心を灼いている。 二つの太陽に照らされた今年の夏は、例年よりも暑く熱くなりそうだと、僕の心が告げている。




