第二十二話 好奇心 12
開始直後、玲さんは不敵な笑みを浮かべながら、左手に持ったスマートフォンを僕に差し出すよう腕を伸ばしてくる。 見え見えの引っ掛けではあったけれど、僕が行動を起こさない限りは彼女の行動も変化しないだろうと思い、まずは小手調べとして玲さんの左手の位置を確認してから彼女の顔を一瞥した後、不意打ち気味に彼女の左手に素早く手を伸ばした。 が、やはり警戒はされていたらしく、僕の手が彼女の手に届く寸前で彼女も軽快に腕を引っ込めた。
「てっきりそのまま渡してくれるのかと思いましたよ」
僕は緒戦の手応えを語った。
「今のが最初で最後のサービスだったのに、惜しい事したね」
玲さんは微笑を浮かべながら僕を挑発している。 それから何度か攻防が繰り広げられたけれど、その度に僕は玲さんの腕捌きに翻弄される一方で、一向に彼女の手に触れない状況に陥っている。
文字通り手を伸ばせば届く距離に位置する目標物に未だに掠りさえ出来ないのは、僕のハンデの一つである、スマートフォンが握られている手以外の玲さんへの接触が禁じられている事が原因に相違ない。 それさえ無ければ多少強引にでも彼女の腕を掴めそうなだけに実にもどかしい。 だけれど、玲さんの明示したルールを僕が受け入れたのも事実であり、それを口に出して訴えてしまうのは筋違いだという事も理解していたから、やはり僕の胸にはもどかしさと焦燥が募るばかりであった。
「どうしたのー? もう二分は過ぎてると思うけど、そんなに悠長に構えてて大丈夫なのかなぁ?」
玲さんは変わらず分かりやすい挑発で僕の焦燥を煽ってくる。 実は既に先の攻防の内で僕はお手付きを二度食らっていて、一度目はほぼ不可抗力に近い形ではあったけれども、スマートフォンを持っていない方の手に僕の指が接触してしまった事と、二度目の時は彼女がスマートフォンを持った手を悠長に自身の膝付近の腿の上に乗せており、彼女が手元から目を離した隙を狙って勢い付けた手を伸ばしたものの、手元から目を離した事すらも作戦だったようで、寸での所で接触しかけた彼女の手は、僕を嘲笑うかのよう俊敏に引っ込められた。
この時僕は、今なら彼女の手を掴めると確信していて、緒戦とは違って勢いを殺す事無く腕を伸ばしたものだから、僕の手はそのまま勢い余って玲さんの腿に接触してしまった。 その後彼女は「お手付き二回目。 どうだった? 私のふともものさわり心地は」と軽く口角を吊り上げてにやにやしながら僕をからかってきたので、こうなる事を予測してのあの手の位置取りだったのだろうと一人結論付けていた。
僕のお手付きは三回目で問答無用の失格である。 だからこれ以上玲さんからの安っぽい挑発に乗る訳には行かないと自制を努めてはいるものの、なるほど挑発には乗らずとも、時間は刻一刻と経過している事だけは明らかだ。
感覚ではあるけれど、もう三分は経ったろう。 その三分の間に僕が出来た事と言えば、お手付きで玲さんの腕や腿を触った事ぐらいである。 数分前を顧みれば、何度も目標物への接触の機会があったはずなのにと、妙に冷静な思考は皮肉にも僕を更なる焦燥へと追い込んでくる。
こうして無駄な思考を巡らせている内にも貴重な時間は過ぎてゆく一方だというのに、僕の脳裏には早くも敗北の二文字が過ぎり始めている。 勝負が決着してもいないのに敗北を考えてしまうのは何とも女々しい思考だ、そんなだからお前は未だに私を心の内に居座らせてしまっているのだと、僕は心の中から僕に罵倒された。
そこまで言われてしまったら、いくら自身の内からの言葉だったとしても、無視する事は叶わない。 だったらいっその事と、僕は古谷さんと花火大会へ行く決心を付けた際に獲得した、当たって砕けろの精神を胸中に燃やした。
有効時間は残すところ一分弱といったところだろう。 ならば僕は一縷の望みに掛けて、玲さんのある行動の後の二択に全力で対応する事を決意した。 ある行動とは、玲さん側に許された、背中に手を隠せる不可視権の行使の事である。
玲さんは三回認められた不可視権をこれまでに二度使用している。 そして残り時間も少なくなった今、玲さんは必ず最後の一回を時間内に行使してくるに違いないと、僕は高を括っていた。 理由は単純、彼女は僕を翻弄する事が大好物だからだ。 ので僕は、高を括ってからというもの、それ以外の玲さんの行動には目もくれず、彼女が最後の不可視権を行使するその時を待ち続け――そして、その時はやってきた。
「これが最後の一回ね」と念を押しながら、果たして玲さんは両手を背中に回して不可視権を行使した。 ここまで来れば僕がしなければならない事はただ一つ。 十秒後に彼女の背中から現れる手のどちらにスマートフォンが握られているかの予測である。
一回目の時は左手だった。 二回目も左手だった。 だったら三回目も――と決め付けたいのは山々だけれど、こういう場合に僕の期待を裏切るのが玲さんという人である。 一、二回目の不可視後に彼女のどちらの手にスマートフォンが握られていたかを僕が記憶しているのは、恐らく彼女も承知の上だろう。 ならば玲さんは、その承知を見越して僕がどちらの手に狙いを定めようとしてくると思っているだろうか。
玲さんの事だから、僕の勘が外れて悔しがる方を選ぶに違いない。 となれば、玲さんはこれまでに左左と来ているから、人間の心理的に右を選びたい気持ちを利用し、僕が右手を選ぶと予測して、きっと三回目も左手に握ってくる筈だと、僕は僅かな時間でそう結論付けた。
「ちなみに私が今スマホを握っている手は左手だよ」
最後の最後まで、玲さんは僕を撹乱しようとしてくる。 けれども、僕の意志は変わらない。 彼女が今更どちらの手にスマートフォンを握っていると言おうとも、先の決意は微塵たりとも揺るがない。 この人は必ず左手にスマートフォンを握っている。 その確信的な思考は最早予測でも何でもなく、玲さんの性格に鑑みた未来予知の域に達していた。
そうして、いよいよ玲さんは背中に隠していた両腕を前方に披露する素振りを見せ始めたから、僕は形振り構わず膝立ちの状態を作り、間もなく現れる玲さんの手にいつでも対応出来るよう、僕の身体の前に腕を待機させた。




