第二十二話 好奇心 10
それから一時間ほど談笑を続けた後、ちょうどお昼時だという事で、玲さんは僕に昼食を振舞ってくれた。 今回は時期が夏という事もあって、出てきたのは冷製のたらこパスタだった。 パスタは生まれてこの方温かいものしか食べた事が無かったから、料理本来の味もさることながら、新鮮味もふんだんに味わえた。 昼食を食べ終えた後は、また玲さんとの話に花が咲いた。
「――それで、終業式が終わった後、冷水機で水をがぶ飲みしたらしいんですけど、その時に加減も考えずに飲みすぎて気分が悪くなったみたいで、結局ホームルームが終わってから吐き気を我慢出来ずにトイレで吐いてました」
「ふふっ、やっぱり双葉の話してた通り、弟くんはそそっかしいんだなぁ」
話題に上がっていたのは、今日三郎太のやらかした水がぶ飲み事件である。 そして先の口ぶりから察するに、玲さんは双葉さんから三郎太の人となりに関する情報をある程度聞かされているように思われる。 自身の不名誉な情報を身内から第三者に公にされてしまう事については同情を禁じえないけれど、三郎太の場合は自業自得が絡んでくるから、一概に双葉さんが悪者だと言い切れないのが歯がゆいところだ。
「でも、三郎太の性格が羨ましい時もあるんです。 さすがにあそこまで能天気には振舞えそうにないですけど、今日だってトイレで吐いた事を古谷さんや他の女友達に何の遠慮も無しに語ってて、それでもみんなは平気で笑い飛ばしてたので、ああいう自分に不利な状況をプラスに持っていけるのは素直に凄いと思います。 僕もあそこまで図太く生きられたら、もう少し視野も広がりそうなんですけど」
僕が暗に三郎太の性格を取り入れてみたいと仄めかしていると、玲さんは少し真面目な顔を覗かせながら腕組みをして、しばし僕の発言に対しての考を巡らせている素振りを見せた後、僕をじっと見据えてきた。
「気持ちは分かるけど、人には本来のキャラクターってものがあるからね。 キミがある日突然弟くんみたいな振る舞いをしたところで気味悪がられるだけだろうし、逆に弟くんがキミのような落ち着いた佇まいで日々を過ごしてたらそれもおかしく見えるだろうし、何にせよ他人の性格の真似事なんてのは、しないに越した事は無いよ。 三つ子の魂百までって昔から言われてるくらいに人の性格ってのは幼い頃にほぼ完成するもので、変えたいと思って変えられるほど簡単なものじゃないからね。 ましてやキミの場合はさっき自分でも言ってた通り、いつ気持ちが揺らぐかなんて分からないし、そんな状態のところに他人の性格なんて取り入れたら不安定に不安定を重ねるようなものだよ。 だから、もしキミが弟くんなり誰かなりの性格を取り入れようとしてるんだったら、悪い事は言わないから、止めときなよ」
玲さんは冷然と、他人の真似など止めておけと僕を論理的に諭してきた。 まるで自身が経験したかのような口吻であり、その分説得力も大いにあったから、僕は素直に玲さんからの忠告を聞き入れた。
全体玲さんの言う通り、いざ冷静になって考えてみると、他人の性格を取り入れる事など不可能に近いのだ。 ましてや僕などは既に私という性質が居座っているのだから、誰かの性格を取り入れようとする暇すら与えてくれないだろう。 それを無理して取り入れようとでもした日には、玲さん曰く不安定に不安定を重ねる結果となり、今まで大切に積み上げてきた僕の男としての容諸共崩れ落ちてしまうに違いない。
元々本気で三郎太の性格を取り入れようなどとは思っていなかったけれど、玲さんに諭されていなければ何処かの機会で何の考えも無しに彼なり他の人なりの性格を真似てしまう可能性も十分に在り得た訳であり、その愚行を思い留まらせてくれた玲さんの功績は計り知れない。 僕は早速玲さんに軌道修正を食らってしまったようだと、自らの軽口を反省した。
「そう、ですね。 第一僕は人の性格を真似出来るほど器用でもないですし、冗談でもやらなくてよかったかもしれません」
「うん、キミはキミのままで居ればいいんだよ。 まぁでも――このキミを見せたら、周りの反応も違ってくるかもしれないけどね」と言いながら、玲さんは突然スマートフォンを操作し出したかと思うと、例の僕の写真を画面に表示させ、僕に見せ付けてきた。
その写真は以前にも玲さんに見せられた経験があるけれど、自身の怯え切った情けなさ極まりない顔は何度見ようとも慣れそうになく、その写真を見る度に僕は玲さんに辱められているような心持を抱かされてしまう。 だから僕は画面から目を逸らさざるを得なかった。
「そんなの見せられる訳ないでしょ……というか、その写真が今も玲さんの手元に残ってるのは僕のせいだから仕方無いですけど、わざわざ僕に見せてこないで下さいよ。 恥ずかしいんですから」
「ふーん」
玲さんは僕の態度に何らの興味を示さないで、僕に向けていたスマートフォンの画面を自分の方へと向けて、例の写真を眺めている。 すると彼女は突然「あっ、じゃあさ」と、何かを思いついたかのような顔色を覗かせながら僕の方を見て、
「キミがそんなにこの写真が嫌いなんだったら、あの子の時みたいに私とも勝負してみる? もしキミが勝ったらこの写真は綺麗さっぱり消してあげるよ。 でも、キミが負けたらこの写真はずっと私の手元に残しとく。 どうかな、別に悪い条件ではないと思うけど」と例の写真の存続を賭けて、僕に勝負を持ちかけてきた。
なるほど勝負の内容こそ判然としていないけれど、僕が勝利を収めれば、あの忌わしき写真は晴れてこの世から消滅するのだから、僕にとっては願ってもない機会である。 ――けれども、先の玲さんの提示した勝負の条件を鵜呑みにしてしまうと、どうにも僕に利が有り過ぎて、却って不安を覚えてしまう。
元々あの写真は、以前に僕が引き起こした玲さんに対する大失態から生まれた産物である。 ので、僕がその写真を消してくれと懇願する事さえ本来烏滸がましさ極まりなく、あの写真を生かすも殺すも玲さんの縦である。 即ちあの写真は、玲さんの手元に存在しているのを嫌と言うほど認識しておきながらも自分ではどうする事も出来ない、いわゆる目の上のたんこぶなのだ。
その大きなたんこぶを、場合によっては取り除いてあげようと譲歩してきたのが先の玲さんであり、元々彼女の手元に残り続けて然るべき写真を消去出来るかもしれない機会をわざわざ相手の方から段取りしてくれたのだから、勝負しなければ逆に損をしてしまう。
よし彼女との勝負に敗北したとしても、例の写真が彼女の手元に永劫残り続けるという状況は勝負を受ける以前から変わりなく、勝利するに越した事は無いけれども、敗北してもデメリットは無いに等しい。 だからこそ、絵に描いたような好条件を怪しまずにはいられなかったのだ。
相手は恣意的な言動に定評のある玲さんだ。 後出しでルールや条件の変更などはお手の物だろう。 故に僕は疑心暗鬼に、
「もし僕が負けたら、罰ゲームとしてあの写真に似た構図の写真を撮らせてとか言うつもりなんじゃないですか」と、予め彼女の後出しに釘を刺すよう、好条件の裏に僕への罰が隠されているのではと仄めかした。 しかし彼女は無言でかぶりを振った後、
「普段だったらそうしてたかもしれないけど、明日から夏休みって事で私も気分がいいからね。 だから今回は特別サービスで、キミが負けても罰ゲームは無しにしといてあげるよ」と、玲さんらしくもないサービス精神を以って、僕への罰は無いときっぱり言い切った。
「本当ですか? でも先輩の事だから、後々になってやっぱり気が変わったとか言いそうで怖いんですけど」
「キミも疑り深いなぁ。 そんなに罰ゲームが欲しいなら、きっついの考えてあげよっか?」
「いや、冗談です。 口が過ぎました。 ごめんなさい」
見る見る内に玲さんの顔色が曇ってゆくのを目の当たりにして、僕は荒天にならない内に彼女の顔色を窺って軽口を謝罪した。 これ以上彼女の機嫌を損ねれば、それこそ本当に僕への罰ゲームが生まれてしまう。 玲さんへの冗談の種類も今後選ばなければならないなと反省しつつ「それで、勝負って何をするんですか」と、僕は玲さんの気が変わらない内に肝心の勝負の内容を訊ねた。




