第七話 訪問 1
ようやく吐き気が落ち着いた頃には少し冷静さを取り戻したけれども、僕は自分のしでかした事に対し、ひどい罪悪感に襲われていた。
「……」
玲さんは、僕が起こした惨状を目の当たりにして呆然と立ち尽くしている。 当然だ。 今日顔を合わせたばかりの男子生徒が何の前触れもなく、いきなり自分の目の前で嘔吐する姿を晒したのだから。 そればかりか、僕が嘔吐する直前まで玲さんは中腰で僕の肩を両手で掴んでいて、そして僕は彼女の足元手前に嘔吐した。
不幸中の幸いだったのが昼食として食べていたのが菓子パン一つであり、嘔吐の内容物が最低限で済まされていた事だろう。 しかしその分、水分量は多めだったようで、結果として直接吐瀉物が玲さんに掛かりはしなかったけれど、地面に接触した際に撥ねたであろう液体が靴は勿論の事、靴下にまでも彼女に飛び散ってしまっていたのだ。
正直なところ、この時僕の精神は諦めの境地に達していた。 それもそのはずだった。 僕が今日先輩にしでかした事と言えばそれはもう言い訳のし様もない、まさに愚昧な行為ばかりだったのだから。
第一に、玲さんが言うところの青春ごっこで彼女の日課であるお昼寝を邪魔し、その件についてお小言を頂いている最中にはむかっ腹を立て、先輩という立場もお構い無しに生意気な口を利いた。 挙句の果てに彼女の目の前で嘔吐してしまい、彼女の足元を汚してしまった。 まるで始末におえないこれだけの醜態を晒し、最早弁解の余地すら無かった僕は玲さんに如何なる言葉で罵られようとも、ひたすら謝り倒す心づもりを既に胸の内へ認めていた。
後は煮るなり焼くなり好きにしろ――そう覚悟してから、俯けていた顔をおもむろに起こし、恐る恐る確認した彼女の顔から送られていた表情は何故だか慈愛に溢れていて、僕は玲さんの性別を知った時のよう目をぱちくりさせた。
「もう大丈夫なの? すぐに動いたらまた出ちゃうかもしれないからもう少し落ち着くまでしばらく安静にしたほうがいいよ。 ほら、壁に背中預けてれば多少楽になると思うからこっちに来て座りなよ」
玲さんは自分の足元の汚れなど気にも留めず、そればかりか先程嘔吐したばかりの僕を優しく介抱してくれている。 僕は彼女に導かれるがまま校舎側の壁に背を預けた。
「もー、具合が悪いなら悪いって早く言いなよー。 いきなりびっくりしちゃったよ。 ほら、ちょっと顔上げて」
何の予告も無しに嘔吐してしまった僕を軽く諭しつつ、玲さんはスカートのポケットからハンカチを取り出し、嘔吐して汚れていたのであろう僕の口周りを優しく拭き取ってくれている。 その行為が妙に気恥ずかしかったものだから、僕はつい自分の顔の前に手を翳し「いいですよ、そこまでしてもらわなくても」と拒否の姿勢を取って看護を遮り、彼女の厚意を無下にしてしまった。
「いやいや、君いま自分がどんな顔してるか分かってるの? 半泣きで鼻水垂らして口元に涎いっぱい付いてるんだから」
出し抜けに僕の顔の状態の酷いのを玲さんに指摘されてしまった僕は、焦って彼女から顔を背け、制服の袖口付近で口元をごしごしと擦った。
「あ! そんな事したら制服が汚れちゃうでしょ?! もー冗談だよ冗談。 ちょっと涎が口周りに付いてたくらいだから綺麗なもんだよ」
「そうですか。 それよりも、先輩の靴とか汚しちゃったみたいで、ごめんなさい……」
いずれ知られる事だろうと思い、ならば早めにと、僕は自ら玲さんの足元の汚れを報告した。
「ん? え? おおっ?! あらら、これまた派手にやってくれたねー」
やはり足元の汚れには気が付いていなかったらしく、自分の足元付近をまじまじと見ながら驚嘆混じりにそう述べる玲さんを見て、僕は再び罵倒される覚悟で臨み、
「まぁこれくらい洗えば済む事だし、そんな事より君が思ってたより元気そうだったから安心したよ。 何か悪い物でも食べてたの?」
またもやその覚悟は水泡となって消え去った。 何故この人はこれだけの事態に見舞われながら僕に皮肉の一つすら寄越さないのだろう。 まるで聖人めいた彼女の優しさが不思議で仕様がなかった。
「昼食はパンだけだったので、多分食あたりとかではないとは思うんですけど」
僕が不意に嘔吐してしまった理由は心得ている。 けれども彼女にその理由を言う訳にもいかず、咄嗟に出たその嘘は実に平凡なものだった。 しかし平凡が故に妙な疑りも掛けられまい。
「そっか、まあ原因はよく分かんないままだけど、病院とかには行かなくても大丈夫そうかな?」
「はい、何だかお騒がせしてすいませんでした。 大分気分も良くなって来たのでそろそろ帰ります」
これ以上介抱され続けるのもばつが悪かったから、玲さんの足元を汚してしまった事は悪く思いながら、半ば逃げ去るような心持で膝に手を掛けて立ち上がろうとした直後、僕は先程の眩暈のような感覚に襲われた。たちまち膝の力が抜け落ちる中、咄嗟に壁際へ体を凭せ掛けたお陰で転倒こそしなかったけれど、再度地面に膝を付いて蹲ってしまった。
「ちょっ、まだフラフラじゃないっ! ダメだってもう少し安静にしとかないと」
先の動悸の影響か、僕の身体は未だ足元も覚束ないほどに弱ってしまっているようだった。 この調子では一人で駅に辿り着けるかさえ定かではない。
「すいません、迷惑掛けて」
「そんなのはいいからまずは自分の心配しなよ。 君、通学手段は?」
「……電車通学です」
「だったら尚更休まないとダメだって! 駅のホームで急にさっきみたいになって転落でもしたらどうするつもりなの?!」
少し前に皮肉を言い合っていた時よりも激しい声音で僕を捲し立てている玲さんだけれど、言い争いの時の皮肉と今の叱責の方向性がまったくの逆さまである事に僕は気が付いた。
言い争いの時の彼女の目的は、僕に日課のお昼寝を邪魔された事に対する憂さ晴らしに他ならない。 玲さんが顔も知らない僕をわざわざ呼び出したのも、そういった理由を後ろ盾にして僕を非難する為だったのだろう。
しかし、今の玲さんは違っていた。 感情が先走っている事に変わりは無く、受け取りようによっては口喧しく映じてしまうかも知れない。 けれども、およそ皮肉とは相手の心労を憂慮しながら口走れるようなものではないのだ。
今の彼女の態度は、言うなれば母親然。 愚鈍な行為を叱り咎めながらも、その実は相手の身を慮ったが故の慈愛の裏返し。 果たして、玲さんがそこまで僕の事を思ってくれていたかは分からないけれど、少なくとも僕の目の前に居るこの女性は自分の身の回りよりも僕の身体の具合を最優先に気遣ってくれている。 それだけは歪曲しようのない、ただ一つの事実であった。
そうして思いがけず彼女の慈悲溢れる在り方を見せられてしまった僕は、自分がいかに矮小な存在であるかを突きつけられたような気分に陥った。 最早この人に逆らう道理は無く、僕はただ項垂れつつ口を噤む事しか出来なかった。
「……んー、そうは言っても、こんな所でずっと休ませてる訳にも行かないし、先生呼んだら呼んだで大ごとになりそうだし、うーん。 ――仕方ない、私の家に行くよ。 そこで休ませてあげる」
僕の衰弱具合を見兼ねたのか、玲さんは僅かに躊躇の色を見せた後、私の自宅で休んでいけと提案してくる。
「先輩の家、ですか」
「うん、私の家。 この学校から歩いて五分くらいの所にあるから、もう少し君の具合が良くなって、ある程度歩けるようになったら行こっか」
「……わかりました」
この時の僕は、自分でも驚くほどに素直だった。 ひょっとすると、身体と同様に精神の方も弱ってしまっていて、だからこそ玲さんの真っ直ぐな優しさに心の安らぎを求めていたのかも知れない。
それからその場でしばらく安静を図った後、ひとまず自分の足で歩けるようになった僕は、連れられるがままに玲さんの自宅へと向かった。




