第二十二話 好奇心 7
「それは助かります。 でも、あの写真はまだ消してもらえないんですよね?」
「当たり前でしょ。 あんなイイ写真消しちゃうなんて勿体無いし」
「ですよね」
「何なら待ち受けにしてあげよっか」
「絶対止めてくださいっ」
覚えず僕はテーブルに身を乗り出して訴えた。 「あはは嘘嘘っ」と、彼女は白い歯を見せて悪戯っぽく笑っている。 久々に玲さんの屈託無き笑顔をこの目に映じて、僕は安堵を覚えた。 この笑顔を見る事が出来ただけでも、今日彼女の家に訪問した甲斐があったというものだ。
それからしばし話頭を転じながら会話を進めていると「あ、そうだそうだ」と、玲さんはふと何かを思い出した気味で「ちょっと待っててね」と言い残して戸を開け放ったまま部屋から出て行った。 何処へ何をしに行ったのだろうなどと思っている内に、彼女は両手でおぼんを支えながら部屋に戻ってきた。
「何ですかそれ」と僕が訊ねると「ジュースジュース」と彼女が答える。 そう言えば以前訪問した時は、僕が部屋に入った時点で飲み物が用意されていたけれど、今回はテーブルの上には何も用意されていなかった事に気が付いた。 それから彼女はおぼんをテーブル上に置いて、再度元の位置へ座り直した。
「いやーごめんごめん、あんまり早く冷蔵庫から出してたら温くなっちゃうからキミが家に来てから出そうと思ってたんだけど、喋ってる内にすっかり忘れちゃってたよ。 お詫びに、はいこれ」
玲さんは飲み物の用意を失念していたと軽く詫びながら、おぼんに乗せていた袋入りの何かを手に取り、僕に渡してくる。 よく見てみると、それは棒状のアイスクリームだった。 アイス本体の色は青く、その色から察するに、味はソーダアイスだと思われる。
「アイスですか、いいですね。 今の時期にはぴったりです」
よもや玲さんの家でアイスをもてなされるとは思いもしなかったから、妙に心持が良くなった僕は早速袋を開けてアイスを口に頬張った。 たちまち口の中に冷たさとソーダの味が広がってゆく。 玲さんも袋を破って、アイスを口に含んでいる。
「やっぱり夏と言えばアイスだよねー。 美味しいし、体も冷やせるし、一石二鳥」
「ですね、今日の終業式が暑すぎたので、余計に美味しく感じます」
「そうそう終業式、何で球技大会の時は両側の扉開放してたのに、今日に限って開けてなかったんだろうね。 それでこういう時に限って先生の話は長いし、私が思うに、あれは絶対意図的に閉めてたんだと思うよ」
「どうしてですか」
玲さんが興味深い事を言ったものだから、一旦アイスを口から離して、その心を訊ねてみた。
「んー、夏休み前に生徒をだらけさせない為の愛のムチ的な?」
どうやらそこまで深く考えていなかったようだ。
「もしそうだったとしても、暑さで余計にだらけたと思うんですけど」
「やっぱりそうだよね」
やはり彼女は深く考えていなかったらしい。 いつもの恣意的な玲さんである。 しかし、玲さんもあの猛暑を体験していたとなると多少の発汗は被ったろう。 この時僕は、学校に居た時に頭に過ぎらせていた例の思考を思い出し、それを玲さんに訊ねようと思い立った。
例の思考とは、女性が化粧を施している場合、終業式の時見たく発汗を免れない場面をどう切り抜けるのか、というささやかな疑問である。 ただ、卒然と女性の化粧事について訊ねてしまうのはどうにも訝しく思われてしまいそうだったから、彼女に妙な詮索をされぬ間に話の筋は通しておかなくてはならない。 そう肝に銘じておきながら、僕はアイスを口に運んでいた手を止め、玲さんを見据えた。
「そういえば玲さんって、化粧とかしてるんですか」
「どしたの急に」
案の定、玲さんは目をぱちくりさせて僕の発言に驚いている。
「いえ、その、女子生徒の中には生徒指導の目に付かない程度に化粧をしてる生徒も居るって話を聞いた事があって、今日みたいに嫌でも汗をかいてしまう場面に直面した時にどうするのかなって少し気になってたんですけど」
「あぁそういう事ね」と僕の脈絡の無い発言の意図を察しながら「まぁ私は化粧なんてしてないけどね」と彼女はあっさり答えた。
「そもそも私だけじゃなくて、大半の女子は学校に化粧なんてしてきてないと思うよ。 うちの学校、校則には結構煩い方だし、ほら、生徒指導に荒井って女の先生居るでしょ? まだ二十代の結構若い先生」
「ああ、国語の授業を担当してる人ですよね。 うちのクラスもあの人に教えてもらってます」
「うん、その人。 で、あの人って見た目は結構大人しそうな人なのに、校則違反を見かけたら結構容赦ないところがあって、学校に化粧をしてきてた女子生徒がその先生に見つかって、先生の目の前で化粧落とさせられた事もあるくらい厳しいんだよあの人」
「そうなんですか、授業の時は至って普通の先生だったので意外でした。 でも、それだけ厳しい人だと、その先生と対立してる生徒も結構居そうですね」
「そうなんだよねぇ」と言いながら、玲さんはアイスを一口齧った。 僕も彼女につられるよう、一口齧る。
「熱血教師のお約束っていうか、確かに一部の生徒にはとことん嫌われてるね、主に女子生徒からだけど。 私達と歳も近い分、舐めて掛かってる生徒も居るみたいで、よく言い争ったりしてるのを見かけるよ。 私は校則違反なんてしないから、むしろあの先生好きなんだけどね。 真面目だし、言うべき事ははっきり言ってくれるし。 探したって中々居ないよ? 体罰だの何だのってうるさい時代に、生徒からの評判なんて気にせずに生徒を叱り付けてくれる人なんて」
玲さんは長々と荒井先生の事を語っている。 玲さんがここまで誰かの事を評価しているところは初めて見たかもしれない。 先の口吻から察するに、荒井先生に何かしらの思い入れがあるように受け取れる。
「……ん? そういえば何で荒井先生の話になったんだっけ」
玲さんは荒井先生の人となりを一通り話し終えた後、はてなと首を傾げながら話の脈絡を辿っている。
「女子生徒の化粧に対して荒井先生が厳しいって話でしたけど、元々は、女性が汗をかいてしまう場面でどうやって化粧崩れを防いでるのかっていう僕の疑問が発端です」
「ああそうそう」と、玲さんは膝を打ったような素振りで首肯している。
「でも私も化粧なんてした事ないから答えようがないなぁ」と、今回は玲さんもお手上げのようだ。
「まぁ、ちょっと気になるなって程度で、そこまで知りたい訳でも無かったですし、家に帰って覚えてたらネットで調べてみます」
「それこそネットなんかじゃなくて直接キミのお母さんに聞いてみれば? 毎日お化粧してるだろうし」
「いや、さすがにそれは気まずいでしょ」
「ふーん、気まずいんだ。 私には遠慮無しに聞いてきたくせに」
「先輩は、その」
「その?」
咄嗟に取り繕おうとしたのが裏目に出て、僕は二の句が継げずに閉口してしまった。 そうして僕がしばらく黙していると、玲さんはまた「その?」とからかい調子に言いながら、これ見よがしに首を傾げて僕の動向を観察している。 今日は失言失態を控えてからかわれないようにと、玄関先で深呼吸をしてまで気合を入れたのに、あの時吸い込んだ気概はもう僕の肺から漏れてしまったようだ。 これでは折角の意気込みも、まるで甲斐が無い。
「――先輩は、僕の母と違って本当の僕を知ってますし、もし母にそんな事を聞いてしまったら、また僕がそういう方向へ向かってるんじゃないかって心配されるかもしれませんし、だから」
ようやく思いついた尤もらしい言い訳も、彼女の前では児戯に等しい。 弁明を果たした後も玲さんは微笑を浮かべ続け、潤いに満ちた両の目で僕を見透かした後、棒に残っていた僅かなアイスの欠片を口に含み、
「ま、そういう事にしといてあげるよ」と、単簡に言い放った。
またこっぴどくからかわれるに違いないと身構えてはいたけれど、予想に反して玲さんはえらくさっぱりと僕のへどもどを流したものだから、何だか拍子抜けを食らったような気分だ。 何か裏が在るのではと勘繰っては見たものの、それ以降彼女はその話題についてまったく触れる事も無く、別の話題に話頭を転じた。 やはりこの人の思惑は読めそうに無い。




