第二十一話 誤解 12
それから僕達はほどほどに湯から上がり、脱衣所を出たすぐ傍の、よくクーラーの効いた休憩所で各自飲み物を買って暫し体の火照りを冷ましていた。 その場所で適当に駄弁った後、僕と竜之介は温泉場で三郎太と別れた。
それから僕達は温泉場の具合を評しながら行きと同じ道を歩き、高校最寄の駅へと向かった。 せっかく風呂に入ったのに歩いている内に汗ばんでしまうのではと心配していたけれど、曇り空で太陽が隠れていた事と、駅に着くまで適度な風が終始吹いていたお陰で要らぬ気遣に終わった。 電車内は温泉の休憩室より冷房がよく効いていて少し肌寒さすら感じた。 次の駅で竜之介とも別れた。 そうして、一人になった時点で僕はまた、風呂場で三郎太が口にした例の言葉を反芻し始めていた。
"まんざら冗談でもねーかもな"
三郎太は一体全体何を思って、あのような発言をしたのだろうか。 僕には到底理解出来なかった。 いや、あの三郎太の事だから、きっとその発言すらも冗談に決まっている。 冗談に決まっていなければ、彼があの場面であのような事を口にした理由に説明が付かない。
そもそも、本当に彼の発言が冗談であったとすれば、僕の今巡らせている思考はまったくの徒労に終わってしまう。 何故なら三郎太の冗談は、毎度何の脈絡も無く恣意的に発せられる発作のようなものだからだ。 故にいちいち何の意味も持たない彼の冗談を真に受けるだけ馬鹿を見るという訳で、そう考え始めた途端、生真面目に彼の冗談の真意を推察していたのが急に馬鹿馬鹿しくなって、僕は脳裏に巡らせていた彼の発言の一切を、窓の外の景色を眺めると同時に頭から放り出した。
灰色の空が、電車の進行方向とは真逆の方向へ大きく動いている。 まるで反対へと雲が動いている所為か、電車と同等の速度で動いているような錯覚を感じる。 そういえば今日は朝から一日曇天模様だったなと、球技大会を含めて今日一日を振り返りながら、空の動きの早いのを目で追っていた。
家に着いたのは十七時過ぎだった。 普段とあまり変わらない時間帯の帰宅である。 ただ、風呂にはもう入らなくて良いから、その分時間には余裕が出るだろう。 僕は母に風呂を済ませたという旨を告げてから、部屋着に着替えた。 勿論下着も替えた。 それから夕食まで何をするでもなく、自室でのんびり過ごしていた。
それから夕食を済ませ、自室に戻った僕は壁掛け時計に目をやった。 今は二十時前だった。 今日は夕食後の風呂の時間が無いお陰で、普段より一時間ほど時間に余裕がある。 けれども、球技大会の疲れも相まって、勉強机用のアームチェアに腰を下ろした途端、どっと眠気が襲ってきた。 このままでは椅子で寝てしまいそうだったから、学校で決めていた通り、今日はもう寝てしまおうと取り決めた。
学生鞄に明日の授業に必要な教科書類を入れ込んだ後、ふと机の上に目をやると、机の隅に置いていたスマートフォンの通知ランプが点灯しているのに気が付いた。 そう言えば夕食後からスマートフォンの存在をすっかり忘れていた。 もし通知の相手が古谷さんだったら、今日は悪いけれど球技大会で疲れたからもう寝るよと断ろう。 そうした詫び言を考えながら椅子に座り、何気なく通知を確認した矢先、僕の眠気は、まったく吹き飛んでしまった。
通知の相手は、玲さんだった。 送られてきたのはSNS宛のメッセージである。 その内容と言えば、例によって絵文字のみを使用した怪文章だった。 けれど、僕が驚いたのはこの怪文章では無い。 今日の件を経て、僕と距離を置いて然るべきはずの玲さんが、まるで憚りも無く普段通りこんなモノを送りつけてきた事に対し、僕はひどく驚かされていたのだ。
僕は、玲さんから送られてきた絵文字の数々を見つめながら、ただただ固まっていた。 何故彼女は、このタイミングでメッセージを送ってきたのだろう。 何故彼女は、あれだけ僕を突き放しておきながら、何の遠慮も無しに僕へメッセージを送れるのだろう。 何故――何故――僕の脳裏は、様々な何故に支配されていた。
そうして、碌に答えも分からない内に僕は返信の文章を打ち始め、
[怒ってないんですか]と送信した。
僕の送信したそのメッセージは、純粋に僕が知りたかった玲さんの心情だった。 まもなく既読が付いた。 それから数分返事は来なかった。 だんだん不安になってくる。 また、愚昧な事を言って彼女に愛想を尽かされてしまったろうかと、先程送信したメッセージを取り消したくなってくる。
すると、突然スマートフォンの画面が切り替わって、メロディが流れ始めた。 画面中央には『坂井玲』と表示されている。 その下には『応答』『拒否』という受話器マークが出ている。 即ち、玲さんから電話が掛かってきたのである。 僕は『応答』マークをタッチしながら横へスライドし、彼女からの通話に応じた。
「もしもし」
自分でもびっくりするほどに、僕の語勢は消え入りそうなほど弱々しかった。 それから玲さんの応答を待っていたけれど、一向に声が聞こえてこない。 電波が悪いのだろうか、はたまた僕の弱々しき語勢が彼女の耳に届かなかったのだろうか。 またもや不安に襲われそうになって「もしもし?」と、もう一度会話を試みた。
先の言葉はそれなりに声を張ったから、聞こえていなければ嘘だ。 しかし、依然玲さんに応答の気色は無い。 やはり電波が悪いのだろうかと通信障害による通話不良の線を推していると、微かではあるけれど、スピーカーから擦れた空気の漏れのような音が聞こえてきた。 ひょっとすると、玲さんの方も僕の声が聞こえておらず、僕に呼びかけ続けているのかも知れない。
やはり電波が悪いようだと推断した僕は、椅子から立って窓際に立ってみたり「玲さん?」「聞こえますか?」などと、何度も声を掛け続けた。 すると、また例の音がスピーカーを伝って聞こえて来る。 どうやら窓際に移動したのが功を奏して、電波が良くなったと見える。 どうせだから全て開けてしまおうと、カーテンも網戸さえも開け放った。
そうして、電燈に照らされている明るい部屋の一部分に、夜の闇が現れた。 明暗がひどく対照的になっていて、室内から窓の外へ視線を向けると、真っ暗闇に吸い込まれてしまいそうな心持がして、少しぞっとした。 しかし、窓を開け放ってから例の声が一段と大きく聞こえてきたので、いよいよ僕はこの通話不良の原因を電波の所為だと結論付けた。
それからまた彼女の名前を何度も呼ぶ。 例の声が判然聞こえて来る。 それを何度か繰り返していた頃、突然スピーカーから陽気な笑い声が聞こえてきた。 漸うにして電波が戻ったように思われる。 満を持して僕は、
「やっとまともに聞こえましたよ、玲さんの声。 さっきまで電波が悪かったみたいですね」と会話らしい会話を始めたものの、玲さんはまだ大笑していた。 何がそんなに面白かったのだろうと気になってくる。 テレビか何かを見ていてツボに入ったのだろうか。 笑い止まない内は会話にもならないだろうから、僕は彼女の笑いが止むまで黙っていた。
しばらくしてやっと静かになった。 三十秒ほどは笑い続けていたと思う。 それから改めて「玲さん、えらく笑っていたようでしたけど、何がそんなに面白かったんですか」と大笑の理由を訊ねた。
『え、そんなの決まってるよ。 キミが電波が悪いと勘違いして何度も私を呼びかけてた事に決まってるじゃん』
一瞬、思考が停止した。 それから冷静になって考えてみて、彼女の言わんとする旨を理解した。
「まさか、最初から全部聞こえてたんですか」
『うん』
彼女は実にあっけらかんとそう言い放った。 そうして、玲さんの思惑をまったく理解した僕は、また彼女にしてやられたのかと深い溜息を吐き出した。 最早、僕をからかってきた理由を聞き出す事すら億劫だ。




