第二十一話 誤解 11
「それぐらいの勢いで行けって事だよ。 ユキちゃんが千佳ちゃんに告られてからもう二ヶ月だろ? そろそろ千佳ちゃんの想いに応えてやってもいいんじゃねーの? いやまぁユキちゃんが千佳ちゃんの事どう思ってるかは知らねーけど、実際そこんところどうなんだよユキちゃん」
先のしたり顔から一変、三郎太は僕の古谷さんに対する気持ちは全体どうなっているのかと、またもや三郎太らしからぬ真面目な相好で訊ねてくる。 今日の彼はやけに僕と古谷さんの関係を気にかけているように思われる。 およそ僕の知る三郎太の性質では無かった。 だから、
「三郎太って、いやに僕と古谷さんをくっつけようとしてくるよね」
三郎太らしからぬ性質の出所を探るべく、僕は先の問いに答えもせず、以前より心に留めていた彼の働きの真意を確かめようとした。
「そりゃそうだろ! 意中の相手が自分に振り向いてくれるように健気に頑張ってる千佳ちゃん見てたら応援したくもなるだろ! あんないい子そうそう居ねーぞ? ――で、ユキちゃんはどうなんだよ。 二ヶ月も言い寄られ続けたら結構その気になってきてるんじゃねーの?」
結局、回り道をしただけで、彼の問いからは逃れられそうにないらしい。 しかし、応答には甚だ困惑している。
僕は、古谷さんの事を好きになろうとしている。 この気持ちは以前より揺らぐ事無く、僕の心の真ん中に位置を占めている。 けれども僕は彼女にその想いを伝えられないでいる。 理由は明白、僕が男の容を物に出来ていないから。 即ち、未だ僕は私のままだという事だ。
――私として、古谷さんに好きだという想いを伝える事は容易い。 けれども、それではまるで意味が無いどころか、今まで育ててきた彼女との関係すら崩れかねない。 僕が私として彼女の気持ちを受け取ってしまったら、僕は古谷さんを『当事者』にしてしまう。 それだけは是が非でも避けなければならない。 だからこの問題についても、例の席替えの時のよう古谷さんには何も知らさないまま、僕は僕の中に『男』を獲得しなければならない。 それさえ叶えば古谷さんはおろか、三郎太や竜之介にさえ知られる事も無く、僕は一人の男として彼女の想いに応えてあげる事が出来るのだ。
――故に、古谷さんへの想いは以前より募りつつあるけれども、未だ僕が男の容を完成出来ないでいる以上、僕の彼女に対する想いは当の本人には勿論の事、目の前にいる三郎太にも伝える事は出来ない。
「……僕も、古谷さんは良い子だと思ってる。 それはこの二ヶ月の間で十分判ったつもりだよ。 でも、この気持ちがあの子に対しての好きっていう気持ちなのかは正直僕にもわからないんだ。 既に古谷さんには『好き』って言われてるから、そういう感覚が麻痺してるだけなのかも知れないけど、でもやっぱりまだ古谷さんの事は好きになり切れてないっていうか。 ――ごめん、自分でも言ってる事がよく分からなくなってきた」
前提として三郎太に嘘を働かなければならない事も相まって、些か思考が混乱し、滅裂な言葉を連ねてしまった。 三郎太は依然押し黙っている。 僕と彼との間に生じている空気は実に重苦しい。 付近からは、僕達より先に入湯していた高年男性達の和やかな声色が耳に聞こえてくる。 同じ湯に浸かっているはずなのに、彼らと僕らとの温度差は甚だしく相違しているように思われる。
「――そうか。 でも、そんだけ答えが出てるなら前よりは進展してるみたいだな」
重苦しい空気を払うが如く、ようやく三郎太が口を開いた。
「どうしてそう思うの?」覚えず僕はたちまち聞き返した。 僕には彼の言う『進展』なるものがこれまで何一つ感じられていなかったからだ。
「だって、ユキちゃんって最初の頃は、正直千佳ちゃんの事あんまり気にかけてなかっただろ? ほら『そのうち僕の事を諦めてくれるかも知れない』とかつれない事言ってたぐらいだしな。 でも今は好きかどうかは分かんねーけど、それでも千佳ちゃんの事は前より気になり始めてるって事だろ? だったら十分進展してんじゃん。 いやー、もしかしてユキちゃんってそういうのに興味ない人かもって思ってたから、そういう気持ちが聞けただけでも何か嬉しいわ。 その調子で頑張れよユキちゃん、応援してるからさ」
彼にそう言われて、僕ははっと思い知らされた。 どうやら僕は僕の知らぬ間に、幾許かの変化を果たしていたらしい。 潮汐の昇降具合が目に留まらないが如く、月の公転がたちまち知覚出来ないが如く、人間の変化というものもまた、すぐさま目には留まらないらしい。 ことに変化の対象が自分自身であるならば尚更知覚出来る筈も無く、灯台下暗しを自ら体現したような気分だった。
「うん、ありがとう三郎太。 今日の三郎太はすごく頼りになるような気がするよ」
「ハハハ、そこは『気がする』じゃなくて『さすが三郎太、頼りになるね!』ぐらい言ってくれよー。 まぁいいや、今のユキちゃんの気持ちも聞けたし、ちょっとは安心したわ。 でも、好きになるにしろ好きにならないにしろ、なるべく早めに答えは出してやってくれよな。 延ばせば延ばす分、千佳ちゃんも不安がるだろうし。 ――あんまりだらだらしてたら、俺が千佳ちゃんとっちまうぞ?」
「はは、今の冗談はちょっと面白かったよ」
「まんざら冗談でもねーかもな」
「……え?」
「いや、何でもねーよ。 わりぃわりぃ。 俺もちょっと熱い湯に浸かりたくなったから、様子見がてらリュウん所に行ってくるわ。 ユキちゃんはあんまり熱いの苦手なんだろ? だったら露天の方にでも行ってみりゃいいぜ。 あそこの湯はここと同じぐらいだし、海も見えるしな。 んじゃまた後でな」
そうして三郎太は、竜之介の居る浴槽の方へと向かっていった。 僕も三郎太に勧められるがまま、露天風呂へと足を運んだ。 露天風呂を囲う壁から顔を出して外を覗いて見ると、確かに海が見えた。 干潮中なのか、所々岩礁が露になっている。 他の場所を見渡すと、ある程度街も一望出来た。
東の山の方に、僕の通う高校とは別の学校が見える。 僕達の学校以外の学生はまだ授業中なのかと思うと、この時間はとても贅沢なものだと思えてくる。 火照った身体に一吹きの風が吹き抜けて、良い心持がする。 海が近い事もあって、潮の香りも同時に漂った。 僕は潮風に吹かれながら、先の三郎太の一言を頭の中で何度も何度も繰り返し繰り返し反芻していた。




