第十九話 三者三様 11
図書室で最後に確認した小雨は、昇降口で彼と話している間に再び大雨へと戻ってしまっていたようで、雨の太い線がまったく垂直に私達の目の前に降り注ぎ続けている。 その直撃を防いでいるのは、私の右を歩いている彼の左手に持たれた紺色の傘だ。 なるほど彼の言った通り、彼の傘は私が使用していた傘より一回りほど大きい。 一体どれほど大きいかと言うと、その傘の防雨範囲に私と彼が納まってもなお多少の余裕があるほどだ。
――とは言うものの、彼は男で私は女。 そして私達はそういう関係では無い。 だから私は、最低限濡れない範囲で、最大限彼の体から離れる配慮を取っていた。
今、並列で歩いている私と彼との間には、腕一本分程度の間隔が空いている。 もちろん、私の鞄は彼の邪魔にならぬよう、左の肩に掛けている。
そうして、私たちが歩を続ける間も、雨はばたばたと紺の傘を打っている。 これほどの雨の調子で傘も無く外に出てしまったら、数秒雨に打たれただけで全身ずぶ濡れになってしまう事だろう。 あの時は威勢良く「走って帰る」と気炎を吐いていたけれど、その気炎も予想以上の雨の勢いにすっかり鎮火させられて、今では彼が家まで送ってあげますと言ってくれた事をありがたいとさえ思っていた。
「先輩、もうちょっと僕寄りに近寄った方がいいんじゃないですか? 左肩の方が濡れちゃいそうですよ」
私の配慮に気が付いたのか、私が彼との微妙な距離を維持しているのを彼が指摘してくる。
「大丈夫だよ。 キミの言ってた通りこの傘大きいし、このままでも濡れないよ」
「本当ですか? その距離だと何か濡れてしまいそうで心配なんですよね」
「本当だって。 そんなに気になるならキミの方から私に寄ってくれば?」
どうせ彼にそんな度胸は無いだろうと確信していた私はからかい気味にそう提案した。 すると彼は「あ、それもそうですね。 じゃあそうします」と何の躊躇いも無く、むしろそういう方法もアリなのかと言った口吻で私の言葉通り、ずいと私の方へと近寄ってきた。 よもやあの彼が自分から女性に近寄るなどという大胆な事をする筈もないだろうと決め付けていただけに、彼がそうした思いがけない行動を取ってきた時には覚えず息を呑んだ。
「キミって、そんなに大胆だったっけ」
「そうですか? 僕から家まで送ると言った手前、先輩を雨に濡らしたくないだけですよ。 それに自分でも言ってたじゃないですか、私を雨に濡らしたら文句言うって。 だからこうして先輩を濡らさないように気を遣ってるんですから、先輩も濡れないよう努力はしてくださいよ?」
なるほどなと、私は彼の似つかわしくない大胆さの出所を知った。 どうやら何かしらの目的を果たす為ならば、彼の目に男女の区別は映らないらしい。 きっと今の彼にとって私は、女性でもなく男性でもなく、ただの一人の人間として映っているのだろう。 だからこそ眉の一つも動かさないで、ここまで大胆になれるに違いない。 だとすると、この状況を妙に意識してしまっているのは私だけと言う事になる。 そう思った途端――私の心に反抗の念が湧き始めてしまった。
私だって女だ。 これだけ近くに異性がいたならば、いくら彼がそういう人間性であったとしても意識しない訳には行かない。 それなのに彼は「こんなのは何とも無いですから」と言わんばかりの顔付きですました顔をしているのだから不公平だ。 この私が多少の動揺を抱かされているのだから、彼にも同様の気分を味わわせてやらないと、どうにも私の気が済まない。 だから私は、
「分かった分かった。 キミがそこまでしてくれるのなら私も努力するよ。 ――これで文句ないでしょ?」と、傘を持っていた彼の左腕に体を寄り添わせ、彼の左の二の腕辺りにそっと私の左手を添えた。 これならどうだと、見上げ気味に彼の顔を眺めていたら不意に彼と目が合い、その上で彼はにこりと微笑んで、
「それなら濡れる心配は無いですね、そのまま離れないで下さいよ」と、また例の調子で私の反抗を往なした。 この時点で私は彼に動揺を与える事を諦めた。
私がここまでしておきながらも彼はこの有様なのだから、私がこれ以上の行動を起こしたとしても、きっと彼にはちっとも作用しないだろう。 傘の恩もあるし、今日のところは彼に勝ちを譲ってやろうと諦観気味に負けを認めた私は、彼と談笑しながら目的地へと歩を進めた。




