自分の作風の無機質さ。
文月 優さんの作品『文章を書く、とは』を読んでの自己反省文です。
私の書くエッセイは無機質だ。
私は、抽象的なものを過度に恐れるきらいがある。
そのため分析し、それを構成する理屈を見出す事で未知の危険がないことを確認して安心していた。
そして、その中で良い感じに筋が通ったな!と思った事をエッセイに書いて投稿していた。
自分なりに満足はしていたのだが、他の著者様のエッセイを読んだ後に自分のそれを読むと、酷く息苦しい、生き埋めにされている様な感覚に陥った。
それもその筈だ。
テーマが自分が恐怖を感じたもので、内容も「こわいとおもったりゆう(子並)」を堅苦しく書き殴った上で改善案をあまり押し出さずに終わらせるものだからだ。
書いていて楽しいものが必ずしも読んでいて楽しいものとは限らない。
人は「身体」と「感情」、「記憶」で出来ていると私は考えている。
何をするにも人は感情で動いており、身体と記憶は感情に働きかける。
理屈は記憶に含まれ、記憶は「こうやったらこうなる」といった公式として感情を操る。
何事も理屈で動く人間がいるがそれは「理屈で動くことが一番である」という感情を持っているだけだ。
身体もそうだ。
ホルモンや神経の状態で精神は揺れ動くし、「痛ければ嫌がる」といったように感情に影響を与える。
身体で感じた心地よさ、ストンと府に陥る理屈の心地よさは感情を幸せに変えるが、本能的に感情に直接働きかけるものに比べて、二度手間となっており感動は薄い。
理屈は書いた人の思考体系が多分に含まれる為に、それを理解する為にある程度作者と同じような思考エンジンを整備しなければならないからなお読み心地は悪い。
改善案を出すに当たっては自分が意見を持つ必要がある。
しかし、私は自分の意見というものを持っていない。
というのも、自分に自信が持てない私は、他者に意見出来る立場にないと頑なに中立を目指してしまっているからだ。
だから、文章にポジティブな要素が少ない為に、読んでいても希望を得ることが出来ない。
更に、私は物事を減点性で評価するようで、発生した意見は否定的なものばかり。
ものを嫌うのは難しくないが、人を嫌う事は難しい。
それは、人を嫌う事は『心で仕掛ける喧嘩』であるからだ。
これは思想にも言うことが出来る。
打たれ弱い私は人を嫌う勇気が出せず、意見を吐き出すことがままならないときが多い。
“あくまで個人の意見”などと予防線を張り、故人になるまで燻るつもりでいた。
自分はネガティブなことに前向きであった。
だから“ポジティブになるべき才能は既に持ち得ている”と思っていたが、私はポジティブになった訳ではなく、ただ“ネガティブな事に消極的”、になっていただけであった。
計器の針はマイナスに触れたまま、ゼロを越えられない。
私は要領が悪いもので、5、6回間違えないとなかなか覚えられないものです。
しかし、回数をこなせば自ずと改善は見えてくるもの。
アウトプットする事は、細部まで把握する必要があり、ものを覚えるのに最適です!(翌日スッカラカンだった事は一度ではないが……。)
この難点、何点?
……まあ、ネガティブな題材のエッセイは、書いていて“楽しい”のでやめるつもりはありません(笑。
それでもポジティブな題材のエッセイも書けるように努力していきます。