倉掃除のバイト 後編
凛は四方八方からの視線に耐えながら、雑巾で棚や木箱を拭いたり、はたきを掛けたり、箒で床を掃いたりした。時折、何かに髪の毛を引っ張られたり、クスクス笑われたりしたが、そのたびに凛は大倉さんの姿を視界に入れ、「自分は一人ではないから大丈夫」と言い聞かせた。
しかし、そんな笑い声に混じり、とんでもない声が聞こえてきた。
――ここにいちゃだめ。とじこめられちゃう。
その声は凛の真後ろから聞こえてきた。小さな子供の声だった。
――にげて。はやくにげて。
子供の声は、震えていた。まるで今にも泣きだしそうである。背筋がゾッと凍りつく。何か、とんでもなく嫌な予感がした。
凛は恐る恐る後ろを振り返ったが、やはりそこには誰もいなかった。ふう、と溜息をつき、首を正面に戻すと、いつの間にか真正面に移動してきていた大倉さんとがっちり目が合った。凛は思わず悲鳴をあげそうになった。
彼の目は、まるで二つの洞窟のように真っ黒だったのだ。
凛は手に持っていた箒を投げ捨てて、一目散に逃げ出した。しかし蔵の扉は彼女の目の前で、勢いよく閉められてしまった。大倉さんは扉に一切手を触れていない。強い風も吹いていない。そもそも蔵の扉はそんなことでは動かない。あり得ないことが目の前で起こったのだ。
辺りは一瞬にして深い闇に包まれてしまった。
――ああ、だからいったのに。
「たすけて!」
凛は大声で叫んだが、聞こえてくるのは大倉さんの不気味な声だけだった。
「残念なことに彼女たちはこの蔵から出ることができないんだ。どこへもいけない。誰かと遊びたくても遊べない。それは私にはどうすることもできなかった」
「やだ、ここから出して!」
「君、ここにいてくれないか。彼女たちも言っているんだ。若い女の子と遊びたいと。きっと楽しい。きっと楽しいよ」
「ここから出して! 出して!」
「きっと楽しいよ。きっと楽しいよ」
大倉さんの声に続いて、クスクスと笑い声が聞こえる。真っ暗闇の中から、何者かの腕が伸ばされ、物凄い力で凛の腕を引っ張った。
「離して! 離して!」
狂ったように叫び続けた。喉が裂けたのか、口の中に鉄の味が広がった。凛の体はずるずると蔵の奥へと引き摺られていく。「もう助からない」と諦めかけた時、一筋の光が差し込んだ。蔵の扉が開いたのだ。
「なっかなか集合場所に来ないと思ったら、こんなところに入ってたか!」
老人の野太い声がした。老人は開け放たれた扉の前に立っていた。背後から外の光が差しているせいで、やけに神々しく見えた。
凛は老人のもとへ駆け寄った。
「あなたは?!」
「神主の大倉です」
老人ははっきりそう答えた。
その日、凛はすぐに家へ帰された。何者かに掴まれた腕は赤く腫れていた。
「まさか、こんなことになるなんて……」
母が『本物の大倉さん』と電話で話している声が聞こえてきた。
あの時、凛が大倉さんだと信じて疑わなかった人物は、一体何者だったのか。それだけはよくわからなかったが、一つだけわかったことがあった。彼女に逃げるように言った小さな子供の正体である。
帰り際、本物の大倉さんは言った。
「君の車が駐車場に停めてあったのはわかっていたんだが、肝心の君の姿が見当たらなくてね。妻に聞いてもわからないし、おかしいなと思って周辺を探し回っていたら、うちに住み着いている小さな女の子の声がしてね。それで蔵に駆けつけてみたら、君がひとりでのたうちまわっていたというわけだ。本当に申し訳ない」
今までにも何度か『大倉さんの姿をした何か』に遭遇した者はいたらしいが、今回のようなことが起こったのは始めてのことだったそうだ。大倉さんは何度も頭を下げて謝っていた。
しかし、謎はもう一つ残されていた。大倉さんの妻、邦枝さんのことである。凛は蔵へ向かう途中、確かに邦枝さんという大倉さんの妻を名乗る人物と言葉を交わしているのだ。彼女は凛がどこにいるのかを知っていた。それにも関わらず、本物の大倉さんが凛をあちこち探し回らなくてはならなかったというのは、少し不自然ではないか。
凛は暫くの間考えた。
――あの人は本当に大倉さんの奥さんだったのかな。もしそうだったとしたら、何故本物の大倉さんに私が蔵にいることを教えなかったの? まさか、あの人は私のことを生贄にしようと……?
冷静になればなるほど、鼓動が速くなるような気がした。
それからというもの、やはり凛はあの神社へは近づいていない。