お爺ちゃんの家 後編
次の日の朝、私はキッチンで妹を問い詰めた。しかし、本人はまるで何も覚えていない様子だった。
「私が夜中に何を言ったか知らないけど、変な夢なら見たよ」
「夢?」
「女の子の夢を見た。二階の窓のところに立ってて、そこから勢いよく外に飛び出した。外には溜池があって、その中に落ちていった。昔見た夢と似てた。やっぱ私が思ったとおりーー」
妹がそう言い掛けた時だった。私たちの真後ろで、ガタン!と大きな音がした。
振り返ると、さっきまで壁に掛かっていた絵が床に落ちていた。しかもよく見てみると絵があった部分の壁にはゴキブリの卵のようなものがびっしりこびりついていた。
「嘘でしょ。早く掃除しなきゃ。確か向こうの部屋に……」
妹はやけに落ち着いた様子でそういうと何か卵を削ぎ落せそうな道具を探しにいこうとした。
カサカサカサ……
直後、なんだか嫌な音がしたので、私たちはもう一度振り返った。ブーンという羽音と共に、その虫はこちらめがけて一斉に飛んできた。その虫の正体が何なのか理解したところで、私たち二人は家が崩れるほどの野太い悲鳴をあげた。
それは紛れもなく、たった今まで卵の中にいたゴキブリだった。
「早く二階に!」
私たちは絶叫しながらゲストルームへ駆け込んだ。ゲストルームには殺虫剤が置いてあったからだ。
私は扉を少しだけ開いて外の様子を伺った。羽音は聞こえなかった。殺虫剤を構えてリビングまで降りていったが、不思議なことに、そこにはもうゴキブリは一匹もいなかった。
「おかしいな」
私が頭をひねっていると、妹が上ずった悲鳴をあげた。震える指先は、さっきまで絵が掛かっていた壁を指していた。
「卵が、元に戻ってる」
驚くべきことに、卵はそのままの形で壁に張り付いていた。ではさっきのパニックは一体何だったと言うのか。
「夢か、幻覚? なんだか頭も痛いんだけど」
妹は眉間にしわを寄せている。
「違うよ。やっぱり夜中にあんたが言った通り、何かいるんだ」
「まあ、それはそうなんだけどさ……」
すると、今度はどこかで皿の割れる音がした。
「もしかしておじいちゃん? おじいちゃんが来てるの?」
私は大きな声で呼びかけた。もしかしたら、おじいちゃんがこの家に戻ってきているのかもしれないと思ったのだ。
「お姉ちゃん、いくらお盆だからってそれはないんじゃない? 第一、もしそうだとしたらひどすぎるでしょ。私たちに何の恨みがあって、こんな嫌がらせみたいなことするの?」
妹はイライラした様子で私の方を見た。わかっている。おじいちゃんがそんなことをするはずがない。でも、この家の中に得体のしれないものがいることを認めたくない。怖い。
暫くすると、家の中の電気がチカチカ点滅し始めた。
「お姉ちゃん。私、ずっと思ってたことがあるんだけどさ」
妹がチカチカする電気を睨みつけて言った。とても落ち着いた声だった。
「私思うんだ。この家、ずっと前から何か良くないものが憑いてるんじゃないかなって。もしかしたら、ずっと昔に、誰か死んでるかも。で、そいつ、この家を乗っ取りたいのかも」
私は背筋が凍りついた。そしてこんなタイミングでそんな恐ろしいことを言う妹を心の底から恨んだ。
「いきなり何を言い出すの」
「夜中に知らない人間の気配を感じるし、妙な寝言を言う。女の子が窓から溜池に飛び込む夢を何度も見る。泳げるはずのお姉ちゃんが何故か溺れる。……もうなんとなくわかるでしょ?」
「まさか」
私は力いっぱい唾液を飲み込んだ。
「そのまさかだよ。とにかく、こんなとこ片付けてさっさと出よう。こういうのはプロに任せたほうが良いって」
「プロって誰よ?」
それからしばらくの間、二人の間に沈黙が流れた。
「お姉ちゃん、おじいちゃんはいつからこの家に住んでた?」
突然、妹は何か思いついたようにそう言った。
「ええと、確か私が生まれる少し前に買った家とか言ってたから、二十年以上前になるんじゃないかな」
そうだ。確かそうだった気がした。
妹は続けた。
「それじゃあ、おじいちゃんが住むよりもずっと前からこの近くに住んでそうな人は――」
「神社の人だ!」
私は妹が言い終わるより早くそう言った。偏見かもしれないが、神社の人ならこの手の話には詳しいのではないか。何かしらの情報を掴めるの可能性は高い。
それから私たちはさっさと車に荷物を詰め込むと、一目散に家を後にした。私はちらっとサイドミラー越しに二階の窓を見たが、人影のようなものが見えた気がした。
神社の近くに車を止め、境内の方へ歩いていく。そこには麦わら帽子を被った老人が草むしりをしていた。事情を説明してみると、どうやらこのお爺さんが神主さんであることがわかった。
「あの西洋風の古い家かあ。確か二十年くらい前だったか、物好きそうな爺さんが買い取ったっけなあ。そうか、やっぱりそういうことが起きてたんだなあ。あの爺さん何にも言わんもんだから、てっきり成仏したもんかと思ってたんだけどなあ」
神主さんは困ったようにぼりぼりと頭を掻いた。
「じゃあ、やっぱりあの家では何か起こっているんですね」
私が尋ねると、神主さんは全てを話してくれた。
「もう六十年くらい前かね。あの家でってわけじゃあないんだけど、あそこらへんで女の子が行方不明になったんだわ。噂じゃ親から虐待受けてたとか聞いたことあるけどね。一応死体は溜池の近くで見つかってるみたいだけど、ホントかどうか。おれもあんときゃ大分若かったしなあ。ちゃんとお払いをしたかどうかも……」
「うちのおじいちゃんは、本当に何も言わなかったんですか?」
妹が疑り深い目で神主さんの方を見た。
「いやあ、言わなかったねえ。むしろ快適だって。だけんど、おれはどうにもあの家にはいろんなもんが住んでそうな気がすんだよなあ」
さすがは骨董品大好きなうちのおじいちゃんだと思った。二十年以上もよくもまああんな家に一人で住んでいられたものである。
それからしばらく私たちは神主さんと話し、あの家と溜池のお祓いをする方向に話は落ち着いた。帰り際、神主さんは私たち二人に軽くお祓いをし、「きっと役に立つから、持って行きなさい」と言ってお守りも渡してくれた。
帰りの車の中で私は、気になっていたことを一つ妹に尋ねた。
「ねえ、あんたあの家に着いたときさ、庭にあった池を覗き込んで『こっちには何もいない』みたいなこと言ったよね? あれってどういう意味?」
「私そんなこと言ったっけ?」
妹はとぼけて何も教えてはくれなかった。しかし私の思うに、彼女は幼い頃からあの家がおかしいことに気がついていたのだろう。今回のことだって、わざわざ神主さんに聞かずとも、大体のことは理解していたような気もする。
「なんか隠してない?」
私は言った。
「確かめに来たの? 何もかも知ってて、わざわざ私についてきたの?」
相変わらず、妹は何も答えようとしなかった。
それからというもの、私たちはあの家に近づいていない。