お爺ちゃんの家 前編
大学二年の夏のことだった。祖父が亡くなってから一週間が経った頃、私と一つ下の妹は、祖父が長年住んでいた田舎の一軒家を訪れた。
運悪く父が風邪をひき、母に家の様子を私たち二人で見て来いと言われたのである。
「懐かしいなあ。おじいちゃんの家に来るのは何年ぶりかな」
私はどでかい鍵穴に鍵を押し込み、力いっぱい扉を押した。西洋風の重たい扉が、ぎぎぎ……と怪しげな音をたてて開いた。妹は庭にある小さな池を覗き込んでいる。
「こっちには何もいないか」
そんなことを言いながら、こちらに駆け寄ってきた。二人で古臭いにおいのする家の中に入る。
家は二階建てで、一階には古めかしいが使いやすそうなキッチン、大きなベッド、高そうな絨毯、広めのユニットバス。二階に上がると大きな窓とゲストルームがあり、日が差し込んでいた。
「意外と埃は溜まってないね。これならそこまで頑張って掃除する必要もないかも」
私がそう言うと、妹は眉間にしわを寄せて言った。
「私、昔からこの家はあんまり好きじゃないんだよね」
「どうして?」
「お姉ちゃんはなんとも思わないの? この薄気味悪い雰囲気をさ」
「アンティークなものが多いから? 普通におしゃれだと思うけど。おじいちゃん、自分が死んだらこの家私にくれるって言ってくれてたし」
妹は呆れたように溜息をつき、私にやっと聞き取れるくらいの声で「冗談じゃない」と言った。
「そういえば、お姉ちゃんは小さい頃この家に来て『お姫様の住むとこみたい』とか訳のわからないこと言ってたよね。私には全然わからなかったよ。この家に来るたびにキモい夢見てうなされるし」
「そうだっけ?」
「そうだよ、もう忘れたの?」
私の中の消えかかっていた記憶が、じわりじわりと甦ってきた。言われてみれば、確かに妹は昔からこの家が苦手だった気がする。もし私の記憶が正しければ、妹は夜中に「知らない人がいる」と言って泣いていたような……
少し考えて、やめた。
「そんなに嫌だった家に行くっていうのに、よく付き合ってくれたよね」
私はこの話はここらへんで終わりにしよう思った。
「一人でこの家の荷物整理なんて、人ごとでも頭が痛くなるからね」
妹は淡々とそう言った。
どうせうちのおじいちゃんのことだから、もっと散らかっているものと思っていたが、意外にも家の中は綺麗に片付けられていた。自分の死期がわかっていたのだろうか。
「うちに持っていくものはこのダンボールに入れといて」
妹は大雑把に二つのダンボール箱を床に放り投げた。
「どこに行くの?」
「ちょっとそのへん。何があるか見てくる。記憶を頼りに」
「そのへんってどこよ?」
「庭より外には出ないから」
妹はそう言って外に出て行ってしまった。さっきあんなことを言っておいて、もう仕事を放棄してしまった。
私が一人で黙々と作業をしていると、じきに妹は何食わぬ顔でのこのこ戻ってきた。
「やっぱり、ここの近くの崖下には溜池があったよ。昔お姉ちゃんが溺れた記憶があったからさ、ちょっと気になったんだ」
「溺れた? 水泳が得意な私が?」
「溺れたよ。救急車呼んだもん。もう忘れたの? それ以来、この家に来なくなったはずだけど」
妹は腕組をして、近くにあったソファーにどすんと腰を下ろした。
「ほかには何かあった? 私、あんまり覚えてなくて」
「民家が三、四件と小さい神社。国道まで坂道を降りればコンビニもある。やっぱコンビニがあるだけで大分ちがうよね」
「ちょっと待って。あんた、さっき庭より外には出ないって言わなかった?」
私が尋ねると、妹はケタケタと面白そうに笑った。
その後、私たちはおじいちゃんの若い頃の写真や貯金通帳や妙なにおいのする骨董品なんかを片っ端から眺めていった。その間にも日はどんどん傾いていった。
だいぶ日も落ちた頃、妹はこんなことを言いだした。
「ここを出るのは明日にしない? 私、夜の車の運転はしたくないの。お姉ちゃんは免許持ってないしさ」
ここまで車を運転してきたのは妹だった。彼女は免許は持っているものの、運転は決して上手いとは言えなかった。幸いこの家のゲストルームにはベッドが三つもあるので、眠る場所には困らないだろう。しかし……
「ここで寝るとうなされるんじゃないの?」
「私はもう一九だよ。来年成人」
妹はまたケタケタと笑った。しかし、案の定悪夢は始まってしまった。
ちょうど、夜中の二時くらいのことだった。私はとなりのベッドから誰かがすすり泣くような声を聞いて目を覚ました。
妹が起き上がり、ズルズルと音を立てて泣いていたのだ。
「どうしたの?」
私は尋ねた。とても彼女がふざけているようには見えなかった。
「気持ち悪い。やっぱりここ、何かいる……」
「いるって何が? 何がいるの?」
「死ぬかもしれない。このままじゃ逃げられない」
妹はそれだけ言うと勢い良くとベッドの上に倒れこみ、何事もなかったかのように寝息を立て始めた。
「誰が? 誰が死ぬの?」
私は何度か呼びかけてみたが、彼女は完全に眠っているようだった。