真実は霧の中 後編
男はタジマという名前で活動しているらしかった。
「まあ、ネット上での名前だけど。君なんていうの?」
「波多野です。さっき言ってましたが、もう未成年じゃないですよ」
「ふうん。波多野か。大学生?」
「いや、これでも一応社会人なんです。来山のショッピングモールわかりますか? あそこで働いてるんですけど」
「ああー、最近めっきり行ってないな。十年以上前に引っ越したから。田舎のショッピングモールにしてはデカいよなあそこ」
「ええ、まあ……」
一花がまた消えた。まるで霧に攫われてしまったかのように。なぜタジマさんはこの霧に対して何も言ってこないのだろうか。
あの事件のことが頭をよぎる。
「それにしても、この霧は何なんでしょうね?」
僕はタジマさんに尋ねてみた。
「……霧? 何のこと?」
タジマさんは不思議そうな顔でこちらを見ている。夏だというのに、冷たい汗が背筋を伝っていくのがわかった。見えていないのだ。この霧が、彼には。
「き、霧じゃなくて、気温。気温です」
かなり苦しい言い訳をした。胸に手を当てずとも、心臓が脈打つのがわかる。
「ああ、気温か。年々暑くなるよな。毎年毎年『今年は去年を上回る猛暑』って言ってるし、これから先どうなるんだろうな」
間違いない。タジマさんに霧は見えていない。
「これだけ暑いと心配だな。一花ちゃんだっけ? でももう子供ってわけじゃないんだろ? そうだ。電話すればいいじゃん」
それはできない。一花は数日前、スマートフォンを水没させているから。
「できないんです。今あの子はスマホを持っていないんです。このまえ水没させてしまったんで」
「普通、こういうところには直してから来るもんじゃないのか? だいいち――」
「……ああ、そうだ。ウィンドキャッスル」
ふと、僕はあることを思い出し、やや強引にタジマさんの話を遮った。
「なんだ藪から棒に」
「もしかしたら、あそこで会えるかも」
「でも、ウィンドキャッスルは園の一番奥だぞ。そこまで行くのにいろんなアトラクションの前を通る。……しらみつぶしに見て行っていいか? 俺も写真を撮りたいしさ」
「はあ、それは構いませんが――」
僕がそう返事をしかけた時、あることに気が付いた。周囲の霧が、濃さを増してきていたのだ。
僕たちはあらゆる場所を探した。ミラーハウス、子供用プール、お化け屋敷、ジェットコースター乗り場、そしてケイブクルーズ。しかしどこにも一花の姿はない。お化け屋敷とミラーハウス、ケイブクルーズは入り口が施錠されていて中を見ることはできなかった。タジマさんはやけに落ち着いていて、アトラクションにまつわる怪談話をいくつか聞かせてくれた。
「なあ、ケイブクルーズには入ったことあるか? 謎の生き物の目撃情報があるそうだ。でっかい人型の生き物らしい。それもまあ、あの事件の後は騒がれなくなったらしいけどな。で、その謎の生き物っていうのは、実は事件を起こした犯人の影だって噂なんだよ。強ち本当かもな」
「あの事件について何か知っているんですか?」
僕は尋ねた。
「まあな。俺の記憶なんていい加減なもんだから、よく覚えてないけど。……あの女の子、今どうしてるんだろうな? 今でもたまに思い出すよ。死んだって噂もあるけど、もしそうだったとしたら自殺とかかな。事件当時は一命を取り留めたって聞いたし」
どう反応すればいいのかわからない。自分から質問しておいて勝手だが、そんな話は聞きたくなかった。一花はどこだ。こんなに探しているのになぜ見つからない? この人はどうしてこんなに落ち着いていられる? それとも、僕のほうがおかしいのだろうか? タジマさんと会ってから、頭の奥で何かが沸騰するような奇妙な感覚が抜けない。何だかもの凄くイライラして、手に持った角材を振り回したくなる。僕は何か、重要なことを忘れている。さて、何だったか。
「おい、大丈夫か?」
何かを察したタジマさんが僕の肩を馴れ馴れしく叩き、はっと我に帰る。
「お前、ホントに二人で来たんだろうな? 新手のドッキリとかじゃないよな?」
どうやら僕は、自分で認識している以上に動揺しているらしかった。無理もない。
「タジマさん、どうして一花を探してくれるんですか?」
僕は何かを誤魔化すように彼に尋ねた。
「なに言ってる、普通は探すもんだろ? 気になるし。ああ、そうだ。観覧車の方に行ってみるか?」
タジマさんはなに食わぬ顔でそう言った。
だが、観覧車にたどり着くまでの間に、僕はタジマさんとはぐれた。
すっかり動揺した僕は、一花の名前を呼びながらむやみやたらに霧の中を動き回った。酷く動揺した為か、角材は途中でどこかに落としてなくしてしまった。濃霧のせいでかなり視界が悪く、よたよたと徘徊するうちに何か固いものに衝突した。
「痛っ!」
よく見てみると、それは一本の街灯だった。その街灯に対して最初は何の疑問も抱かなかった。しかし頭が落ち着きを取り戻すにつれて、妙な違和感を抱き始めた。
灯りが点いているのだ。誰もいないはずの遊園地に。
それから数分の間に濃霧はすっかり消え去り、姿を現したのは夕焼けに染まった真っ赤な空、灯りのともった観覧車やウェーブスインガー、そして目の前に立ちはだかるアトラクション『ケイブクルーズ』だった。中からは愉快な音楽が聞こえている。
これは一体どういうことだ。ここには誰もいないはずなのに、ついさっきまで入口が施錠されていたはずなのに、どうして灯りが点っている? 明らかに今までいた世界とは違う。誰もいないにもかかわらず、遊園地のすべてが機能している。霧の中にもうひとつの世界でもあるのだろうか。だとしても訳がわからない。
「一花!」
入口に向かって呼びかけてみたが、返事はない。帰ってくるのは愉快な音楽と陽気なナレーションだけである。
『みなさん、ケイブクルーズへよ~うこそ! 私は元冒険家のジョージ・スミス。これから入る洞窟の中には、かつて水の都と呼ばれていた伝説の遺跡が存在したのだ。そしてなんと、遺跡の中には世界中の冒険者たちが探し求めてきた幻の財宝が眠っていたのだ! 私は何十年も前にあの洞窟に探検に行ったものの、邪魔が入り財宝を手に入れることは叶わなかった。しかし、あそこで見たものは実に素晴らしいものだった。どうだいみなさん? 私のリベンジに、是非とも付き合ってはくれないか!』
廃園前と全く変わらない音声に、思わず涙が出そうになった。懐かしい。恐ろしさよりもそんな感情が勝ってしまった。
ケイブクルーズは水の下に敷かれたレールを走るボートに乗って、洞窟を探検するアトラクションだ。効果音とナレーションの声がいやに大きく、全体的に薄暗いので子供のころは乗るのが怖かった。洞窟の中には遺跡と財宝があるという設定で、道中様々な敵が現れる。その設定だけは冒険意欲を掻き立てるため、気に入っていた。そして何よりこのアトラクションでは、一花が……
中に足を踏み入れてみると、機械は正常に作動しているらしく、乗り場にはボートが「さあ乗りなさい」と言わんばかりに準備されていた。
馬鹿げた話かもしれないが、もしかしたら一花が中にいるかもしれないと思った。おそらくこの世界は、さっきまで僕がタジマさんといた場所とは全くの別次元にあり、一花は『こちら側』にいる可能性が高い。
中に入るにはボートに乗り込むしか方法はなかったので、僕はスマートフォンのライトで足元を照らしながらボートに乗り込んだ。
僕一人しか載っていないボートは静かに動き出した。子供のころとは違い、それほど恐怖を感じなかった。
奥へ進むほど、暗闇は濃さを増してゆく。辺りが何も見えなくなったところで、突然ボートは波に揺られ、何の音なのかもわからない効果音が鳴り響いた。子供のころはこれが怖くてならなかった。少し進むと、じきに暗闇の中にぼんやりと光るものが見え始める。ごつごつした岩場だ。岩の隙間に青白く輝く結晶のようなものが見える。僕はその結晶をぼんやりと眺めていた。
その時だった。何者かの影が結晶の上を横切った。とんでもなく大きな影だった。
「誰だ!」
僕は辺りを見回しながら叫んだ。その瞬間ふと、タジマさんの言葉が蘇った。
――なあ、ケイブクルーズには入ったことあるか? 謎の生き物の目撃情報があるそうだ。でっかい人型の生き物らしい。それもまあ、あの事件の後は騒がれなくなったらしいけどな。で、その謎の生き物っていうのは、実は事件を起こした犯人の影だって噂なんだよ。
一花は犯人に攫われてから、ケイブクルーズの中にあるハリボテでできた「遺跡」の中に押し込まれていたという。脱水症状により瀕死の状態だったとも聞くが、詳しいことは僕にもよくわからない。
もしかして、犯人がそこに?
ありえない話であることはわかっていた。わかっていたが、僕はボートから飛び降りると腰の高さまである水の中をばしゃばしゃ歩き、作り物の岩場の上を走った。だが影は遺跡の前まで来ると煙のように姿を消してしまった。僕は作り物の遺跡の中を覗き込んだが、中には誰もいなかった。がっくりと肩を落とし、後から水の上をゆっくりと走ってくるボートに再び飛び乗った。
ボートで遺跡の前を通り過ぎると、武器を持った三人の盗賊が現れる。もちろん蝋人形か何かだ。スピーカーからは男たちの怒号と銃声が聞こえてくる。
『財宝は俺たちのものだ! 邪魔するものは皆殺しだ。なんならお前らの前でこの財宝こど破壊してやろうか!』
『――なんだと!? そんなことしてみろ! この遺跡に危害を加えた者には必ず天罰がくだると言われているんだぞ!』
ナレーションのスミス隊長も言い返す。その時洞窟全体に地鳴りのような低い音が響き渡った。
『何だ、この音は? どんどん近づいてくる……そうか、わかったぞ! 鉄砲水だ! 逃げろォ!』
スミス隊長は緊張感のある声でわざとらしく叫んだ。ボートの後ろでざぶざぶと水が跳ね始める。少女の悲鳴が聞こえたのは、それとほぼ同時だった。もしかしたら、僕の幻聴だったのかもしれない。しかし、確かに僕はあの遺跡の中から悲鳴のような声を聞いたのだ。
ボートはスピードを上げ、出口に向かって真っすぐに走った。その間前後左右から大量の水しぶきが飛んできた。そして、大きな効果音が少女の悲鳴をかき消した。
盗賊と財宝は水に飲まれ、ボートに乗った乗客は無事に出発地点まで戻ってくるというシナリオらしい。僕はボートから降りて外に出た。
「あっ!」
外に出てから、ふとスマートフォンの存在を思い出した。まさかこんなに濡れるとは思わなかったのだ。子供のころはカッパでも着ていたのだろうか。
幸い、スマートフォンは水没していなかった。それどころか、メッセージが一通届いていた。
『小日向』
タジマさんからだった。僕はそのメールに返信してやろうと思ったが、やめた。
僕はウィンドキャッスルへ向かうことにした。彼女がこちら側にいることは間違いない。僕の頭が狂っていなければ、この推測は正しいはずだ。僕さえ、狂っていなければ。
■
園内にはキャラメルポップコーンや綿あめなどの甘ったるい匂いが漂っていた。そういえば、一花はこの甘ったるい匂いが大嫌いだったはずだ。「昔は大好きだったのに、いつからか嫌いになった」と過去に聞いた覚えがある。
念のため売り場に行ってみたが、もちろんそこに人の姿はなかった。しかし、あるものを見つけた。
カウンターの上に、割れた青色のネームプレートが置かれていた。プレートには白い字で「SHIM」と書かれているが、割れてしまった右側部分が見当たらない。
その時、背後に何者かの視線を感じて後ろを振り返った。しかしそこには誰もいない。だが確かに誰かに見られているような気配がある。僕は辺りを見回した。そこから見えるのはミラーハウス、ウェーブスインガー、そして観覧車。
その時、観覧車の中で何かが動いたような気がした。間違いない。誰かが乗っている。あれはもしかして――
「一花?」
間違いなく一花だ。こちらに手を振っている。おそらく高い場所から僕のことを探していたのだ。それにしても、こんな怪しい場所でよく一人で乗ろうなんて考えたものだ。狭いところも嫌いなくせに。
僕は観覧車の真下まで走っていくと、ちょうど一花の乗ったゴンドラが下りてきているところだった。 しかし、少し様子がおかしい。
「出して! ここ開けて!」
一花は内側から扉を叩いている。どうやら内側からゴンドラの扉を開けることができず、今まで延々と一人で回っていたようだ。
内側から扉を開けると、一花は一目散に草むらめがけて走っていった。ただでさえ狭いところが苦手だというのに、同じところを何周もぐるぐる回ったせいで気分が悪くなったらしい。
何気なく一花が走っていった方に目を向けると、地面に何かが落ちているのが見えた。青色の小さな四角いもの……ネームプレートだ。近づいてよく見てみると白い字で「ADA」と書かれている。おそらくさっきポップコーン売り場で見かけたネームプレートの右側部分だろう。ぼうっとそれを見つめていると、一花が戻ってきた。
「ごめんね。『ありがとう』も言わずに。しばらく園内を歩き回ったけど、電気は点いてるくせに誰もいないし、高いところからなら全体が見渡せると思って、なんとなく入ってみたら勝手に扉が閉まったから……」
僕は残っていたスポーツドリンクを一花に渡すと、ネームプレートを拾い上げ、彼女に尋ねた。
「半身は見つかった?」
僕がそう言うと、一花は何か知っているかのように顔をしかめた。そして蚊の鳴くような小さな声で何か言ったが、あまりにも小さな声だったため、よく聞き取れなかった。
僕が聞き返そうと口を開きかけた瞬間、一花は強引に右手で口を塞いできた。そのせいで僕は舌を噛んだ。
「快くん。もういいから、ここから出よう。もう大丈夫だから。ごめんね。私のためにありがとう」
一花は少しの間黙り混んでから、僕の目をじっと見つめて再び口を開いた。
「もう大丈夫。もう私の意識はここに縛られないから。今はただ、家に……家に帰りたい」
辺りにはまた霧が立ち込め始めていた。とにかくこの場から離れようと、僕たちは歩き出した。
■
しばらくの間、僕たちは真っ白な霧の中を歩いた。今まで聞こえていた音、感じていた匂いや光が、遥か彼方に遠ざかっていく気がした。それらの音が遠ざかるにつれ、新たに耳に入ってきたのは油蝉と野鳥の声だった。それに伴って、冷静になりつつあった僕の頭も、ようやく事態を受け入れはじめていた。
霧を抜けると、ウィンドキャッスルの手前にある広場に出た。花壇に花はなく、雑草が蔓延り、レンガには苔が生え、周りの建物は塗装が剝げ落ちている。
間違いない。戻ってきた。
ウィンドキャッスルの方を見る。僕は一花との約束を思い出し、写真を撮ろうとおもむろにポケットに手を伸ばしたが、やめた。どうせ、写真に写るのは僕一人の姿だ。
それにしても、あいつとはぐれたのがあの霧の中で良かった。あの中なら、もう誰にも見つけられないだろうから。
僕は一花の手を引き、入ってきたゲートまで歩いて行った。その間、一度も後ろを振り返らなかった。振り返る必要など、もうないからだ。
ゲートをくぐり駐車場まで来ると、まるで悪夢の世界から現実に引き戻された時のように、全身にどっと疲れを感じた。僕は一花を車の後部座席に乗せ、自分も運転席に座ると、静かにエンジンをかけ、もう二度来ることのない遊園地を後にした。
一花の家の前まで来たときには、もうそこに彼女の姿はなかった。
それからというもの、一花が僕の家に来ることはなくなった。これからも僕は詳しいことを彼女の口からは聞けないのだ。聞けないくせに、よく知りもしないくせに、僕は一人の人間をこれから先も恨み、その感情を正当化し続けるだろう。誰よりも現実と向き合えずにいるのは、一花でも、ましてやあの男でもなく、僕自身なのだ。
しかし、そんな現実も、僕は受け入れなければならない。
来山アイランドが取り壊されるという話を耳にしたのは、一花がいなくなってから間もなくのことだった。
あの不思議な場所はようやく役目を終えたのだろう。




