夜の訪問者(別視点)
いとこのお爺さんから聞いた話です。
八月の、蒸し暑い夜のこと。時計の針が午前一時を過ぎた頃、お爺さんは自分の家の玄関が、何者かによって激しく叩かれる音を聞き、目を覚ましたそうです。南房総の山奥にあるお爺さんの家は、もう何年も来客など来ていません。ましてや、こんな真夜中に訪ねて来る人など、例え山奥でなくてもいるはずがないのです。
奇妙に思ったお爺さんは、静かに玄関の前まで歩いて行きました。なるべく足音をたてないように、慎重に。
「すみません。こんばんは。どなたかいらっしゃいませんか?」
その時、玄関の戸の向こうから、若そうな女の人の声が聞こえました。電気を着けると、曇りガラスの向こうに薄ぼんやりと女の人のシルエットが浮かび、どことなく不気味だったそうです。
お爺さんは、恐る恐る戸を開けました。そこに立っていたのは、三十代くらいの茶髪の女の人でした。
「ご迷惑だということは十分わかっています。ただ、山の中で迷ってしまって、偶然この家を見つけたので……」
女の人は疲れきった様子でそう言いました。
「山で迷った? あんたどこの人だ? なんで山の中になんかいる?」
不審に思ったお爺さんは、女の人に尋ねました。女の人は少しばかりバツの悪そうな顔をしてから、小さな声で話し出しました。
「死のうと思って。山の中で……でも死にきれなくて、山を下って偶然ここにたどり着きました」
この辺りの山では、自殺をしようと街の方からやってくる人間も少なくはないのです。現に、見知らぬ人間が杉の木にぶら下がっているのを、お爺さんは幾度か目にしたことがありました。
「馬鹿かあんたは。どうやってっこまで来た?」
お爺さんは呆れたように言いました。すると、女の人はうつむいたまま答えました。
「向こうの山の下にダムがあるでしょう? そこの橋の近くに車を停めてきました。そこからは、ずっと歩いてきました。車まで戻りたいんですが、道がわからなくて」
お爺さんは女の人の足元に目を向けた。不思議なことに、彼女は靴を履いていませんでした。蒼白い足には赤く血がにじんでいたと言います。
「よくもまあ、その足で……」
仕方がないので、お爺さんはこの女の人を元きた場所に送り届けるため、家の中に車の鍵を取りに行きました。
しかし、お爺さんはその間に考えました。あれが本当に人間なのかどうか。しっかりとした二本の足が有り、その足からは赤い血が出ているので、どうも死人のようには見えませんが、何かが引っかかるような気がしていました。まるで何か大事なことを見落としているような……
お爺さんは女の人を助手席に乗せ、真っ暗な山道を軽トラックで走りました。車ならば大した距離ではないはずなのに、ぞっとするほどその時間は長かったと言います。お爺さんは途中、何度も隣の女の人の存在を確認しました。気がついたら消えていた、なんてことのないように。
しばらくすると、ダムの上にかかる橋の上に、一台の赤い軽自動車が見えました。無用心にも、ドアは開け放たれていました。お爺さんは車を停め、その場で女の人を降ろしました。
「ありがとうございます。本当にありがとうございます。おかげで助かりました」
女の人はお爺さんに向かって何度も頭を下げました。
「もう二度と来るんじゃないぞ」
お爺さんは車から降りずにそう言いました。そして、もときた道を引き返していったのですが、女の人の姿は、一度も振り返ることが出来なかったようです。
家まで戻ってきたお爺さんは、とても眠る気にはなれなれず、気を紛らわすためにテレビをつけ、珈琲を淹れ、色々と考えを巡らせました。そして、これまで抱いていた違和感に、ようやく気がつきました。
女の人は裏の山から降りてきたと言いましたが、その裏の山というのは、断崖絶壁のような場所で、とてもひとりの女の人が裸足で下りてこられるような場所ではなかったのです。
あの女は、本当に裸足で山の斜面を降ってきたのだろうか?
どうして街灯一つない真っ暗闇の中、明かりの点いていない家を見つけることができたのだろうか? 靴は一体どこへ置いてきたのだろうか? 少なくとも、車にはなかったはずだ。
やがて夜が明け、お爺さんにとって人生一長い夜が終わりました。
すると遠くの方から、パトカーのサイレンが聞こえてきたそうです。
お爺さんは、そこから先のことは教えてくれませんでした。
この物語は実話を元にしたフィクションです。