鐘の音
幼い頃、今は亡き私のお婆ちゃんはよく言った。
「あの山の神社に子供一人で行ってはいけないよ。
行ったら奴らに喰われるぞ」
当時中学生だった私は、何故その言葉を忘れてしまったのか、今でもわからない。
お婆ちゃんの死をきっかけに、お婆ちゃんとの記憶を封印してしまったのだろうか。それとも、自分はもう子供ではないとでも思っていたのだろうか。
どんよりと、灰色の分厚い雲が被さった夏の日だった。
私は学校の宿題である風景画の題材を探すべく、一人で外をぶらついていた。
曇っていたということもあってか、長時間外にいても苦ではなかった。私は同じような砂利道をひたすら歩き、どこかに良いスポットはないかと探したが、広がったいるのは平坦な田畑と伸び放題の草っ原ばかり。
違う。もっと面白いものが描きたいのに。
そう思っていた時、どこからかカン、カン、と乾いた鐘の音が聞こえてきた。
その音が聞こえる山の頂きには、小さな神社とちょっとした展望台があることは知っていたが、鐘があるだなんて聞いたことがなかった。
私はその音の正体がどうしても気になってしまい、山の上まで行くことにした。展望台があるのなら、そこからの眺めもきっと良いはずで、風景画を書くにはうってつけの場所だろうとも期待しながら。
お婆ちゃんの言葉など、頭の片隅にもなかった。完全に消え失せていた。
感覚の狭い急な階段を登ると、古びた神社が姿を現した。だがそこには誰の姿もなかった。それどころか、鐘らしきものすらそこにはなく、ただぼろぼろに朽ち果てた鳥居と境内、そして、狐の形を彫った怪しげな石だけだった。
ここじゃなかったのかなと思ったが、せめて風景だけでも写真に撮って帰ろうと高台へ立った。その時、突然背後から声がした。
「あの、何か?」
仰け反るほどびっくりして振り返ると、自分と同じくらいの歳の女の子が立っていた。
私が何も言えずにいると、じきに彼女の方から切り出した。
「よろしかったら、お茶でも飲んでいかれません? この神社、人が来るのは久しぶりなんです」
「い、いえ、私はただ景色を見に来ただけで……」
「構いませんよ、ここまで来るのは、大変だったでしょう」
あまり、必死に断るとかえって失礼な気がしたので、私は彼女の後を付いて神社の中へ入った。
「今、持ってきますね」
そう言うと彼女は部屋の奥へと姿を消した。随分と暗く、埃っぽい部屋だった。
暫くすると、彼女はお茶らしきものを持って戻ってきた。
「あの、ちょっと気になったんですけど……」
相手の丁寧な喋り方に釣られたのか、私も下手くそな敬語で尋ねた。
「今日はお祭りか何かですか?」
会った時からずっと気になっていた。彼女が可愛らしい朱色の浴衣を着ていることが。
「ああ、これですか」
彼女は私にお茶を差し出しながらにっこりと微笑んだ。
「今晩、あの隣の山で、お祭りがあるんですよ」
そう言うと、見るからに何もなさげな隣の山を指差した。
「へえ、聞いたことなかった。いつからですか?」
「わかりません。でも、ずっと何年も前からですよ」
その瞬間、ぞくり、と背筋が凍った。
別に、何かはっきりした理由があったわけではないのだが、まるで、私の中の何かが危険を感じ取ったかのようだった。
しかしそんなにいい加減な理由でここから逃げ出す訳にもいかず、とりあえずは落ち着こうと彼女の淹れたお茶を口に運ぼうとした時だった。
――飲んではいけない!
聞き覚えのある、どこか懐かしい声が私の手を止めた。
――走って! 早く!
私に迷いはなかった。
気がつくと、もの凄い勢いで階段を下っていた。
一刻も早くこの山から出なけきゃ! そんな思いが頭の中をぐるぐると駆け巡った。
クスクスと、森の中から誰かの笑い声がしたような気がした。
――あの山の神社に、子供一人で行ってはいけないよ。
何故、忘れていたのか。
やっとのことで家にたどり着いた頃には、もう辺りは薄暗くなっていた。
直感で、これは母に怒られるなと思った。
しかし、私を見た母の反応は私の想像とはだいぶ違っていた。私を見るなり青ざめた顔をして、飛びついてきたのである。
「佳子! あんた、なんともないのね!? 本当に佳子なんだね!?」
私にはなにがなんだかさっぱりだった。きょとんとする私などお構いなしに、母は私をがっちりと掴んだまま、暫くの間泣きじゃくっていた。
後から話を聞いてみると、私はあの日、家を出たきり二週間以上行方不明になっていたのだという。
「あの山の神社に、子供一人で行ってはいけないよ。
行ったら奴らに喰われるぞ」
お婆ちゃんの言葉が、頭の中にこだました。