見えない、動けない
私の知り合い(名前がないと不便なのでAとする)は、一人旅が趣味だ。しかし一人旅といってもそこらの人が言う一人旅とは訳が違う。彼女は主に、ぼろぼろの廃墟や廃れきったいなか町を巡るのが趣味の廃墟マニアなのだ。私も前に何度か同行したことがあったが、何がそんなに面白いのか、いまいち理解できなかった。
そんなAが、ある時こんな話をしてきた。
「出ちゃった。幽霊。始めて会っちゃった……」
久しぶりに再会し、何を言い出すかと思いきや、旅先の旅館で幽霊を見たと言うのだ。
A曰く、40年代頃から残されている古い廃墟に写真を撮りに行ったのだそうだ。
そしてその日の夜、彼女が旅館の部屋で寝ていると、突然何かを引き摺るような音と人の気配を感じたらしい。
ドアの鍵を閉め忘れて誰かが勝手に入ってきたのかと思い、びっくりして身体を起こそうとするが、身体のどの部分もピクリとも動かない。いわゆる金縛りというやつだ。
大抵の場合、金縛り経験者は身体は動かせなくても瞼の明け閉めだけはできるということが多いのだが、Aの場合瞼すら動かせなかったという。固定された真っ暗な空間で、ひたすら正体不明の物音と何者かの気配を感じ続けたというのである。
音はどんどんAの頭の方へ近づいて行った。やがて畳を這い回るようなズルズルという音に加え、吐息と思わしき音も聞こえてきた。
Aは恐ろしくてたまらず、動かない瞼の隙間から涙を流すことしか出来なかったが、そんなことなどお構い無しに、音の主はじわりじわりとAに近づいて来る。
最終的には耳元に生暖かい息が掛かるまでになった。
Aはなんとか涙を引っ込め、懸命に寝たふりをした。しかし――
「オマエ、起きてるだろ」
地鳴りのような、低い男の声だった。
もちろん、Aはそのまま動かなかった。男が話し掛けてきたのはどういうわけかその一言だけだった。それから暫くすると何も聞こえなくなり、人の気配も消えたそうだ。だが、金縛りの状態は明け方までずっと続いたのだとか。