映りこんだヒト(改稿前)
何が原因だったのかはわからない。
あれの目的も、正体も。
どうしてあれは突然現れ、そして突然私の前から消えたのか。今となっては本当に男だったかどうかも怪しいところだ。
いずれにせよ、私が言えるのは、あれはこの世のものではないということ。それだけだ。
数週間前、友人と江ノ島の海岸で写真を撮ったのが事の始まりだった。
その写真には、私と友人の後ろにに知らない男が写りこんでいた。遠いからわかりづらいということもあってか、どうも心霊写真という風には見えなかったのだが、良く見てみるとその男はやけに細身で肌が白く、髪もない。おまけに黒っぽい服装をして、不自然に背中が曲がっていた。なんとなく、海岸の岩の陰から、こちらを窺うように身を乗り出しているようにも見える。
ちょっと不気味だったので、一度は削除しようかとも思った。だが幽霊など全く信じていない友人曰く、その一枚が「一番盛れた写真」であったため、私はそのまま友人のスマホに写真を送り、自分のアルバムにも保存したままにしておいたのだ。
不可解な出来事が起こったのは、その写真を撮ったすぐ後だった。
私は大学へ行くため、いつものように人でごった返した東京駅を歩いていた。京葉線から中央線に乗り換えるのだが、その日はたまたま丸の内側にあるブックカフェに寄り道していた。
何か面白そうなものはないかと、平積みにされている小説をぼんやり眺めていると、ふいに果物が腐ったような刺激臭と、誰かの視線を感じた。全身に鳥肌が立つのを感じ、私は反射的に顔を上げた。
一人の男が、本棚の向こう側からこちらを見ていた。棚の僅かな隙間から、血走った二つの目玉が、こちらをじっと見ていたのだ。睨んでいたと言った方が正確かもしれない。やけに黒目がちな目をしていた気がする。瞳孔が完全に開ききったような感じだった。
「ーーうわっ!」
私はあまりの気味の悪さに堪らなくなって声をあげ、すぐに目を反らしてしまった。冷静になって目線を戻した時には、男はもうそこにいなかった。煙のように消えてしまった。店内にいた他のお客さんが、不審者でも見るような目で私を見ていた。
男がその日のうちに再び現れることはなかった。……と思う。というのも、その男のことはなるべく考えないようにしていたし、常に友人数人と行動していたからだ。もしかしたら、気づかぬうちにどこかから見られていたのかもしれない。
そして次の日の夜、事態は急変した。
6月31日、午後9時。
ゼミの飲み会を終え、どしゃ降りの中東京駅の八重洲口から高速バスで家に帰っている時だった。
私は発車時間ぎりぎりに乗り込んだため、乗車券は買わずにその場で料金を支払い、偶然空いていた後ろから三番目の座席に腰を下ろすと、すぐにシートベルトをした。この瞬間のことは、今でも鮮明に覚えている。
それからは特に何をするわけでもなく、窓に激しく打ち付ける雨をぼんやりと眺めながら、家に着くまで少し眠ろうかなどと考えていた。すると、車内の明かりがチカチカと点滅し始めた。どうも照明の調子が悪いらしかった。
右車線を一台のバスが追い抜かしていった。私はそのバスを無意識に目で追い、戦慄した。
あの男が乗っていた。
本屋で目が合ったあの男が、生白い顔でこちらを凝視していたのだ。両手を窓ガラスにべったりとくっつけ、遠くからでもわかるほど血走った目で私の方をーー明らかに私だけを見ていた。口をしきりに動かし、何か言っているようだったが、それが何を意味するのかはわからなかった。とにかく、男が異様に興奮していることだけは確かだった。
バスが通り過ぎた後も、当然ながら私は呆然としていた。だかふとあることを思い出し、バッグからスマホを取り出した。アルバムを開き、江ノ島で友人と撮った写真を見返した。
同・じ・だ・と思った。
写真に写りこんでいた男も、本屋で隙間からこちらを見ていた男も、さっきバスに乗っていた男も、全部……
私はすぐさまその写真を削除した。何故か削除にいつもより時間がかかり、画面が数秒間暗転した。
真っ暗になったスマホの画面は、鏡同然だった。ほんの一瞬のことだったが、その画面に、生白く歪んだ男の顔がぼんやり映ったように見えた。
本来なら、私の顔が映らなければおかしいはずだ。だがそれは、明らかに私の顔ではなかった。
びっくりして自分の顔を持っていた鏡で確認してみるが、特に変わりはない。一体何がどうなっているんだ思っていると、突然座席の前方から女性の悲鳴が上がった。
「ちょっと! 何してるのよ!?」
シートベルトをしたまま、思い切り背を伸ばして悲鳴がした方を見てみると、フロントガラスの向こうに、道路が見えなかった。目の前は壁だった。
ーーあ、ぶつかる。
異様なまでに冷静だった私は咄嗟に身構えたが、その瞬間、さっきの男が言っていた言葉を理解した。最悪なタイミングだった。
「よし、よし。いいぞ。死ね! そのまま、死んじまえ」
男の言っていたことは、おそらくこれで間違いない。直後、殴られたような凄まじい衝撃があった。辺りは真っ暗になり、割れた窓からどしゃ降りの雨が容赦なく入り込んできた。自分の頬をつたうのは雨水か、それとも血なのか、それすらよくわからなかった。少し温かかったから血だったかもしれない。
朦朧とする意識の中で、ガラスの破片が落ちる音と、他の乗客のうめき声や息遣い、そして、最後に誰かの舌打ちの音を聞いた。
次に意識が戻ったのは病院だった。幸い、後ろの座席にいた私は死なずに済んだのだ。
その日、私の乗っていたバスはトンネルの脇に突っ込んだ。運転手の居眠り運転が事故に繋がったと報道されたが、本人が死んでしまったので本当のところはわからない。
それからというもの、あの男は私の前に姿を現さなくなった。理由はまるでわからない。だが、ひとつ気になっていることがある。
一緒に江ノ島に行った友人が、最近不可解なことを言い始めたのだ。
「寝ぼけてただけかもしれないけどさ、昨日の夜、ガリガリで髪のない男みたいなのが窓の外にいたの。私の部屋二階なのにさ。まさか、登ってきたのかな」