58.貴族のロジック
ガタガタと視界が小刻みに上下に揺れる。
この世界に来てもう半年近くになるのでいい加減慣れたものだが、最初の頃は地球の車がいかに快適だったかということを恋しく思ったものだ。
というわけで、今は馬車の中である。
フランソワ家の別荘までの旅路を、クレア様、ミシャ、ドル様と一緒に、豪華な三頭仕立ての馬車に揺られている。
席順は御者側にクレア様と私、後ろ側にドル様とミシャという配置である。
この席順に関しては一悶着あったのだが、最終的にはクレア様が我が儘を通し、ドル様が折れた形だ。
「そこで私はこう言ってやったのだよ。貴殿の言うことは絵空事だ。貴族なしに王国の政治は立ちゆかない、とね」
大げさな身振り手振りで言うのは、クレア様のお父様であり、王国の財務大臣でもあるドル様である。
馬車に乗り込んでから半日ほどが経つが、ドル様のまあよく喋ること喋ること。
「お父様。その話はもううかがいましたわ。何度目だと思っていらっしゃいますの」
「うん? そうだったかい? じゃあ、別の話をしよう。これはクレアが生まれたばかりの頃の話なんだが――」
ドル様といえば、王族を除けばほぼトップの貴族である。
彼が喋りたがる以上、その話を遮ることの出来る者はほぼいない。
唯一、クレア様がそれに当たるが、クレア様も生粋の貴族だから、父親の話をそうそう遮ったりは出来ない。
せいぜい、話が一段落した所で先ほどのように苦言を呈する程度だ。
ドル様が話す内容は、ほとんどが自分の功績自慢である。
財務大臣という地位にあるドル様は、つまり国の金庫番だ。
他の省庁の地位が低いという訳では決してないが、それでも金の流れを抑えている役職というのは、前世の日本を含めてやはりどこの世界でも強い。
数いる政治家や官僚たちが作る法案や政策も、ドル様の協力なしに成立しえない。
結果として、ドル様はあらゆる法案や政策の成立に関わることになり、それを自分の功績と見なしている節があった。
「クレア。まだ若い……そして女であるお前には分からないだろうが、政治というものは理想では動かないものなのだよ」
「はあ……」
ドル様の矛先が自分に向いたクレア様は、少しうんざりした様子で曖昧に相づちを打っている。
その目が助けを求めるようにこちらを見た。
「ドル様。小さい頃のクレア様はどんなでいらしたんですか?」
「それはもう、天使だとも! この世にクレアほど愛らしい存在などなかったさ!」
釣り針を垂らしてみたところ、ドル様はあっさりかかった。
立て板に水のごとく、クレア様の幼少期について事細かく、それはもう嬉しそうに喋り始めた。
ふいに脇腹をつつかれた。
ミシャである。
「あなた、よくドル様相手に直接会話出来るわね……」
「なんで? 未来のお義父さんだよ?」
「あなた、よくドル様相手にそんな冗談が言えるわね……」
呆れたようにため息をつくミシャは、疲労の色が濃いようだった。
私と違って元々は貴族だったミシャにとって、ドル様という存在はやはりプレッシャーを感じざるを得ない存在らしい。
隣に座っていること自体が恐れ多く、まして言葉を交わすなど、もっての外ということなのだろう。
「まあ、この私が平民に会話を許すのも、クレアが許せばこそだ。そうでなければ、そもそも馬車を同席するなどありえんよ」
「閣下とクレア様の寛大なお心に感謝いたします」
「うむ」
私がへりくだると、ドル様は満足そうに頷いた。
「しかし、クレア。この平民とずいぶん打ち解けたようではないか。最初はあんなに嫌がっていたのにどういう風の吹き回しだね?」
「……別に今でも打ち解けたつもりはありませんわ」
「そうかね? クレア、お前は貴族にしては心根が優しすぎる。憐れみをかける相手はよくよく選ぶことだ」
ドル様は噛んで言い含めるように言った。
クレア様はうんざりした様子だったが、それでも頷いていた。
「さもないと、また同じ過ちを繰り返すことになるからね……あの、裏切り者のオルソーのように」
ドル様が、その言葉を口にするまでは。
「お父様!」
「長年、取り立ててやったのに、とんでもない売女だったな、あれは。帝国と通じ王国に弓を引くなど、死罪でも生ぬるい」
まったく陛下は甘い、とドル様は毒づいた。
クレア様は今にも爆発しそうだが、懸命にこらえている。
これはいけない。
私はなんとか再度話題を変えようとした。
しかし――。
「しかもあの女、実の兄と関係を持っていたとか。そんな者がクレアの側にいたというだけで、クレアを汚されるよう――」
「いいかげんになさって!」
クレア様が声を荒げてドル様の言葉を遮った。
私は間に合わなかった。
「クレア……。お前が優しいのは分かるが、あんな者の弁護をするのは――」
「お黙りになって、お父様。それ以上、レーネのことを貶めたら、いかにお父様といえども許しませんわよ?」
なおもレーネを攻撃しようとするドル様に、クレア様は夜叉のような表情で凄んだ。
ドル様が気圧されたように一瞬口をつぐむ。
「確かにレーネがしたことは許されることではありません。それについてはお父様の言うとおりですわ。でも、彼女には彼女なりの苦悩と痛みがありましたのよ……」
クレア様の口調には血がにじんでいるかのようだった。
「レーネは罰を受けています。もうそれ以上はよして下さい。わたくしは、今でも彼女のことを大切に思っていますの」
裏切られてなお、クレア様は自分の従者を思いやっている。
クレア様はなかなか人に心を開く人ではないが、ひとたび自分の身内と認めた相手にはとことん甘い。
そういうところも、私はとても好きだ。
しかし――。
「クレア、それは貴族の考え方ではない。改めなさい」
ドル様は冷たく突き放した。
「貴族とは人を支配するものだ。思いやりとは、人を支配するための方便であって、感傷に浸るためにあるものではない」
「わたくしは感傷に浸ってなど――!」
「なら、裏切った使用人を思いやって得られるものは何だ? 今お前が口にしたことを、他の貴族が聞いたらどうなる?」
「そ、それは――!」
クレア様は言葉に詰まった。
気がついたからだ。
クレア様とドル様は、全く違う原理に基づいて話をしているということに。
クレア様は飽くまで情緒的な話をしている。
それは人間が人間らしく生きていく上で不可欠なもの、ロジックだけでは満たされない心の部分だ。
対して、ドル様はロジックに徹している。
それはおよそ人間らしさとはかけ離れた、損得勘定の世界だ。
そして、それこそが貴族である、とそう言っているのである。
「クレア。お前が私を失望させないことを祈っている」
「……」
「返事はどうした」
「……」
「クレア」
「……はい」
クレア様の声は、か細く消えてしまいそうな弱さだった。
私はクレア様に声をかけようとして――やめた。
クレア様が今傷ついているのは分かっている。
でも、私がどんな言葉をかけたところで、クレア様の傷は癒えはしないし浅くもならない。
なぜなら、クレア様が傷ついているのはドル様の言葉のせいではなく、それによって気がついた自分自身――どうしようもなく貴族であるクレア様そのもののせいだからだ。
クレア様は賢い。
その気になればドル様の言葉にいくらでも反論出来るだろう。
でも、それでどうなる?
どこまでも貴族で、貴族としてしか生きたことがない自分に、貴族のロジックを否定する資格があるのか。
そんな懊悩が言葉で語るよりも雄弁に見て取れる。
だから私は言葉をかけない。
ただし、今は、だ。
私はいつかクレア様を――クレア様のあり方を、全て肯定して見せる。
一時しのぎの優しい言葉や、おためごかしでは決してない、本当の肯定を実現してみせる。
その為には、今は沈黙することを選ぶ。
ドル様やミシャがいる今は、そうすることが必要だからだ。
でも、せめて。
「……!」
クレア様がちらりと視線をこちらに向けた。
私はドル様から見えない位置で、クレア様の手を握っていた。
軽く握りこむと、クレア様はそれ以上の強さで握り返してきた。
クレア様の温もりを感じる。
クレア様にも、どうか温もりよ届け。
言葉には出来ない。
でも、今の私たちには、言葉がなくても伝わるものが確かにあるのだと信じたかった。
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