265.心象の世界(2)
亀裂が世界を覆い尽くした後、クレア様の周囲は一変していた。
亡くなったはずのミリア様が生きており、クレア様の隣には私がいた。
「お母様、今度のメイドはとても変なんですのよ。わたくしのことが好きだなんて言うんですの」
「あら、いいことじゃないの。今までレーネくらいでしょう、そんなことを言ってくれたのは」
「レーネは特別ですわ。でも、今度の者は……何かこう……変ですのよ」
「どんな風に?」
「上手く言えませんわ」
「あらあら……とうとうクレアもそんな年頃なのね」
「ち、違いますわ! 何を言い出されますの、お母様!」
「ふふ……」
私のことを愚痴るクレア様と、それを温かく見守るミリア様――クレア様がどれだけ望んでも叶わなかった光景が、今、私の目の前にある。
「クーレーアー様!」
「ひっ!?」
「なにオバケを見たような顔してるんですか。ほら、学院行きますよ! レーネも待ってるんですから」
「分かりました! 分かりましたからお離しなさい! 気安く触れるんじゃありませんわよ!」
「なら、ねっとりしっぽり触れればいいんですか?」
「いいわけないでしょう!」
「くすくす……。行ってらっしゃい、クレア。あなたもクレアをお願いね」
「お任せ下さい、お義母様!」
「誰がお義母様ですの! さっさと行きますわよ!」
「あーん、待って下さい、クレア様」
何気ない日常がそこにはある。
それはきっと、クレア様が思い描いた理想の世界だ。
私がいることをクレア様にとっての理想と言うのは自意識過剰かもしれないが、それでももう自分の存在が小さくない程度の自覚がある。
そしてミリア様が生き続けていることは途方もなく大きい。
きっとクレア様が求めてやまなかった、穏やかな日々。
私だって、出来ることならずっとこんな日々が続けばいいと思う。
でも――。
「クレア様、起きて下さい」
私はクレア様に向かって呼びかけた。
クレア様を連れ戻さなければならないからだ。
どんなに幸せに満ちていても、どんなに求めてやまなかった世界でも、これは偽りだ。
クレア様には帰るべき世界がある。
でも、どういう空間なのか、歩いてももがいてもクレア様の元には一向に近づける気配がない。
目の前の光景は穏やかに移ろっていく。
クレア様は妙に美化されたように見える私の偽物と、少しずつ仲を深めていった。
マナリア様にも認められ、やがて学園公認のカップルになった。
そうしてある日の放課後、
「クレア様……いいですか?」
「野暮なことを聞くんじゃありませんわよ」
夕暮れの差し込む教室で、お互いを愛おしげに見つめ合う二人の姿があった。
「ちょっと待った! 私のクレア様に何しようとしてるの!」
これはマジでキスする五秒前だ。
いくらなんでもそれは許せない。
クレア様の唇は私だけのものだ。
仮に相手が私だとしても、その私は偽物だ。
など考えている間にも二人の距離は近づいて行く。
「わー、待った待った!」
「しっかりして下さい、レイ=テイラー」
「ぴゃいっ!?」
焦燥感に駆られていた私に声を掛けたのは、黒ずくめの人影だった。
「魔王……」
「業腹ですが、クレア様を救えるとしたら、それはもうあなただけなんですよ?」
溜め息とともにそう言う魔王。
彼女が何かしたのか、キスシーンは唇が触れあう寸前で止まっている。
「ありがとうございます、魔王……って、あなた大丈夫なんですか、それ……」
魔王は満身創痍の状態だった。
私たちと戦った時よりもさらに酷い。
恐らく、タイムに何かされたのだろう。
体のありとあらゆる場所にノイズが発生していて、時々姿が揺らいでいる。
「私を気にかけるのは時間の無駄です。いいですか、レイ=テイラー。よく聞きなさい。クレア様は今、タイムにハッキングを受けています」
「ハッキング?」
「ええ。“平和な世界を守りたい”という思いを利用されて、この停滞の世界に閉じ込められているのです」
「そんなの、一体どうすれば……?」
ハッキングなんて私には出来ない。
機械音痴というわけではないが、せいぜいワードやエクセルが使える程度のスキルしかないのだ。
「教皇様も言っていたでしょう。ここは心の世界。魔法とはまた違うロジックが働く場所です。ここでは思いの強さが全てです」
「思いの強さ……?」
「クレア様は偽りの揺り籠に囚われています。偽物のミリア様と偽物のあなた――その二人と永遠の停滞を生きようとしている。打ち破れるとすれば、あなただけです」
「私が?」
「ええ。永遠の時間によってすり潰されてしまった私の心では、もうクレア様をシステムから解放するほどの力は出せません。でも、あなたは違うでしょう?」
クレア様を思う気持ち。
それならば――。
「それなら、神様にだって負けはしません」
「いい返事です。声が届かないように見えますが、今、クレア様の心とあなたの心は繋がっている。だから、叫びなさい。もっと強く」
そうすれば、あるいは届くかも知れません、と魔王は言った。
「ありがとう、魔王」
「礼を言うのは、クレア様を取り戻してからにして貰いましょうか」
「ええ」
力強く答えると、私はまさに唇を重ねんとしている二人に向き直った。
そうして、思いの限り叫ぶ。
「ちょっと待ったぁー!」
湧き上がる怒りのままに身体を動かすと、私の身体はぐんぐんと二人に近づいていく。
何故か服装も王立学院の制服に変化していった。
そして――。
気がつくと、もう一人の私にドロップキックをかましていた。
星になって消えていくもう一人の私を見送って、私は満足げに笑った。
やってやったぜ。
「きゃあぁぁぁ!? ちょっと、何をしてくれますの!?」
まるで他人を見るかのような視線を私に向けながら、クレア様は言った。
「それはこっちのセリフですよ、クレア様。私以外の人間とキスしようなんて、言語道断です」
「何を世迷い言を。そもそもあなたはどなたですの? このクレア=フランソワの邪魔をしようというのですから、それなりの覚悟はあるのでしょうね?」
クレア様は腕を組んで顎をくいっと上げたいつものポーズで私を睨み付けてきた。
我々の業界ではご褒美だが、今はそんなことを言っている場合ではない。
「クレア様、あなたがキスしようとした相手の名前は?」
「はあ? どうしてあなたにそんなことを答えなければなりませんのよ」
「あれ? 答えられないんですか? そうですよね、クレア様ってば普段強気ですけれど、いざとなったらへたれですもんね」
「……わたくしを挑発しようとは、いい度胸ですわね。いいですわ、教えて差し上げます。わたくしの愛しい人の名前は……名前は……?」
クレア様の表情が青ざめていく。
思い出せないでいるようだ。
やはりクレア様は正気ではない。
明らかに精神に何か細工をされている。
タイムの仕業だろう。
なるほど。
クレア様は自ら望んでシステムに身を捧げている、ただし、その精神を操作しているけど、というわけだ。
「クレア様、ここはあなたのいるべき場所じゃありません。あなたには帰るべき場所があるはずです!」
「う……うぅ……」
クレア様が後ずさる。
動揺しているようだ。
これなら、もう一押しすれば……。
「やめて下さい!」
「!?」
「お母様!?」
クレア様と私の間に立ちはだかったのは、どこからか現れたミリア様だった。
「娘のことを苦しめないで! この子は……この子はもう……」
「お母様、下がって! 危ないですわ!」
涙を流しながらクレア様の壁となるミリア様。
いくら偽物でも、ミリア様に攻撃なんて私には出来ない。
ましてや、一度は彼女を失ったクレア様の前では。
「下がりません! 私はあなたを最後まで守れなかった! もっともっと、あなたのことを見守っていて上げたかったのに……!」
「何を仰っていますの、お母様! いいから下がって!」
クレア様が泣き崩れるミリア様の前に立った。
その身体から、紫色の光が立ち上った。
「何者か知りませんが、お母様には手出しさせませんわよ? 即刻、排除して差し上げますわ!」
そう宣言すると、クレア様の身体から四つの紋章が浮かび上がった。
これは……マジックレイ。
「クレア様、正気に戻って下さい!」
「警告はしましたわよ」
紋章から閃光が迸った。
私は慌てて避ける。
教皇様はこの空間は量子の空間だと言っていたから、これは正確には魔法ではないのだろう。
でも、当たって無事に済むとは考えにくかった。
クレア様を助けに来たのに、何が悲しくてクレア様と戦わなきゃいけないのだ。
私は何とかクレア様の目を覚まさせようと頭を巡らせた。
「私のこと、忘れちゃったんですか! レイです! レイ=テイラーです!」
「記憶にありませんわ。わたくしにはお母様と彼女だけいればいいの。速やかに立ち去りなさい」
「イヤです!」
「なら、排除するまでですわ」
再びの閃光。
私は何とかこれも避けた。
「ちょろちょろと小賢しい……。なら、これでどうですの」
四つの紋章が同時に光を蓄えていく。
流石に四条もの閃光を避けるのは厳しい。
タングステンカーバイドの防壁でも、マジックレイは防げない。
万事休すか。
「消えなさい」
三度目のマジックレイが放たれる。
それは四方から私に迫り、そして――。
「……あなたも邪魔をするおつもりですの?」
「タイムの傀儡になるなんて、あなたらしくもない」
魔王は私を守るように前に出ると、手足を伸ばして仁王立ちした。
「擦り切れてしまったとはいえ、私もまたあなたを思い続けてきた身。ちょっとやそっとで破れると思わないで下さいね?」
「よく分かりませんが、あなたも排除すればいいのですわね」
クレア様が紋章を操って魔王に照準を合わせた。
「ぐうっ……!」
マジックレイをまともに受けた魔王が、苦悶の声を上げた。
見ると、片腕が吹き飛ばされている。
「魔王!」
「実際に肉体が欠損しているわけじゃありません。ダメージが量子体に分かりやすく反映しているだけです」
「結局重傷じゃないですか!」
「痛みはありません。レイ=テイラー、あなたはあなたのすべきことを。あなたの思いをぶつけて見せなさい!」
「……分かりました!」
魔王の声に応えて、私は一度集中するように目を閉じるとイメージを固めた。
クレア様は必ず取り戻す――その一心で。
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