264.心象の世界(1)
気がつくと、私はどこかの屋敷の中にいた。
いや、よく目を凝らすと見覚えがある。
ここは恐らく……。
「お許し下さい! お許し下さい! クレア様!」
「ダメよ! ふくもまんぞくにきせられないメイドなんて、こうしてやるわ!」
声が聞こえた方に歩いて行くと、そこにはどこか見覚えのある幼女が、鞭を持ってメイドを折檻していた。
明るい金髪に勝ち気な瞳。
間違いない、あれはクレア様だ。
とすると、ここはやはりフランソワ家の屋敷なのだろう。
でも、クレア様はかなり幼く見える。
これは一体……?
私が首を傾げていると、クレア様の折檻はヒートアップして行った。
顔には無邪気な笑いを浮かべており、メイドを何度も鞭で叩いている。
「お許し下さい、クレア様! この者はまだ当家に来たばかり。不慣れは平にご容赦を」
「いやよ! わたくしのメイドはかんぺきでなきゃ。てずからきょーいくしてあげるのですから、かんしゃなさい。おーっほっほっほ!」
子どもの力とは言え、鞭というのは小さな力でもかなりの痛みを与えることが出来るものだ。
叩かれているメイドの肌にはいく筋ものミミズ腫れが出来ており、うずくまって涙を流すその姿はとても痛ましい。
どうやら私が見ているのは、クレア様の過去のようだ。
今はクレア様の第一ワガママ期――母親であるミリア様が事故で亡くなる前の時期なのだろう。
ただの過去の回想というわけでもないようで、辺りの景色には微妙に装飾めいたものを感じる。
全体的に色が華やかかつ豪奢で、まるでワガママし放題のクレア様の気持ちを象徴するような雰囲気だった。
「クレア様」
試しに呼びかけてみたが、私の声は届かないようだった。
メイドたちも同じで、ここでは私はただの傍観者らしい。
「クレア! またあなたはメイドをいじめて!」
クレア様によく似た女性が、部屋に入ってくるなり声を荒らげた。
「おかあさま……でも、このメイドがみじゅくだから、わたくし……」
やはり女性はミリア様のようだった。
クレア様は先ほどまでのワガママっぷりが嘘のようにしゅんとしてしまった。
「言い訳は聞きたくありません。いつも言っているでしょう。貴族たる者、平民に敬われるに相応しい振る舞いをしなさいと。その子に謝りなさい」
「で、でも……」
「謝りなさい」
「うぅ……。……ごめんなさいですわ」
流石のクレア様もミリア様には勝てないようで、おずおずと謝罪を口にした。
解放されたメイドが、年配のメイドに連れられて部屋を出て行く。
「ミリア、君は少しクレアに厳しすぎやしないかね?」
「おとうさま!」
メイドたちと入れ違いに入ってきた男性――若かりし頃のドル様にクレア様は抱きついた。
「あなたがクレアを甘やかすから、クレアのワガママが直らないのです。クレアには淑女の何たるかを――」
「まあまあ、それくらいでいいじゃないか。クレア、苺が届いているよ。食べるかい?」
「たべますわ!」
「あなた! クレアも! 全く……しょうがない人たち」
これはまだクレア様が幸せしか知らなかった時の光景だ。
彼女がまだ、世界は自分を中心にして回っていると信じて疑わなかった頃。
でも、この幸せは唐突に終わりを迎える。
◆◇◆◇◆
場面が変わった。
辺りは色彩を失ったモノクロになっている。
場所もフランソワ家の屋敷ではなく、どこかの墓地のようだった。
「汝、ミリア=フランソワ。汝はいと高き神の御許に召され――」
神父とおぼしき人が何事か唱えている。
辺りに集まった人々は一様に黒い服を着ていた。
喪服だろうか。
クレア様も黒い子ども用のドレスに身を包み、棺をぼんやりと眺めている。
その瞳に、先ほどまでのような闊達な光はない。
「お気の毒に……クレア様はまだ四歳でしょう」
「ただの事故ではないらしい。アシャール侯爵が事故を装って……」
「しっ……。公然の秘密だが、無闇に口にするものではない」
口さがない列席の貴族たちの噂話も、クレア様の耳には届いていないようだった。
ミリア様がドル様とともに事故に遭ったのは、クレア様が四歳の誕生日当日のことだった。
二人はクレア様と一緒に誕生日を祝うはずが、ライバルの貴族に呼び出され、その帰り道に事故に遭った。
謀殺だったと言われている。
クレア様は誕生日を一緒に祝ってくれないミリア様とケンカをし、それを謝ることが出来ないまま死別となってしまったのである。
「クレア様……」
クレア様の隣には、幼い頃のレーネが付き従っていた。
レーネはクレア様の手を握っている。
心配げな視線を向ける彼女は、まるでクレア様の姉のようだった。
「ほら、クレア。お母様にさよならを言いなさい」
「……」
ドル様が促すが、クレア様は無表情のまま立ち尽くすだけだった。
ドル様は痛ましさに目を背けると、教会の人間たちに合図をして、棺を埋めるよう指示した。
ミリア様の棺が溝に埋められ、上から次々と土をかぶせられていく。
「いや……いやあぁ……っ……!」
しばらくその様子をぼうぜんと見ていたクレア様が、突然、弾かれたように棺に飛びついた。
「お母様に土をかけないで! お母様が汚れてしまいますわ!」
「クレア……」
「お母様は眠っているだけですのよ! きっと目を覚ましますわ! だってわたくし……わたくし……」
クレア様は全身を震わせるように叫んだ。
「お母様にごめんなさいって言ってませんわ!」
◆◇◆◇◆
場面がまた変わった。
辺りはまだモノクロのままだ。
今度もまたどこかの貴族の屋敷のようだが、私には見覚えがない。
クレア様は部屋で一人、膝を抱えて蹲っていた。
まるでよく出来た人形のようだった。
コンコン、と扉がノックされる。
クレア様は反応しない。
もう一度ノック。
今度もクレア様は反応しなかった。
「なんだ、いるじゃないか」
入ってきたのは少年だった。
いや、少年のような格好をした少女――幼い頃のマナリア様だ。
クレア様は面倒くさそうに一度視線を向けたが、また膝を抱えて俯いてしまった。
「塞いでいるね。無理もない。あんなことがあったんだから。でも、クレア。そのままではいけないよ。キミがそんなことでは、亡くなったミリア様が安心して天国にいられないじゃないか」
「お母様が……?」
「そうさ。ミリア様はいまでもキミのことを見守っていらっしゃる。キミがくよくよしていたら、ミリア様も悲しいと思うよ?」
「でも……でも、わたくし……お母様に……酷いことを……」
クレア様の顔が歪んだ。
その目からぽろぽろと涙がこぼれる。
マナリア様は一瞬動揺した様子を見せたが、すぐに笑顔を浮かべて、
「天使のようなキミ。誰もキミを責めてないよ。もちろん、天国のミリア様も」
「本当ですの……?」
「もちろんさ。ボクが保証して上げる」
「……」
クレア様が顔を上げた。
そこで初めて、クレア様は目の前の王子様のような少女を認識した。
「やっとこっちを見てくれたね、か弱いキミ。我は今ここに汝を守り通すことを誓う」
「それって……アモルの詩の……」
「さすがに博識だね。キミがそれを知っているのは、誰のお陰だい?」
「お母様の……」
「そうだよね。ほら、キミの中に、確かにミリア様はいるだろう?」
「!」
クレア様がはっとした顔をした。
同時に辺りの風景がほんの少し色を取り戻した。
やはりこれはクレア様の心象風景なのだろう。
「さあ、クレア。立ち上がって。ボクが側に着いていて上げる。悲しいことがあったら、ボクが守って上げるから」
「……」
クレア様はこくりと頷いて頬を染めた。
私にとっては少し悔しい光景だが、この時マナリア様がいなかったら、クレア様はどうなっていたか分からない。
マナリア様にはお礼を言わなければ。
「あなたはなんと仰るの?」
「ふふ、それは次に会う時までのお楽しみにしよう。それまでに、キミは笑顔の似合うお姫様になっているんだよ?」
「……ええ!」
涙を拭いたクレア様はほころび始めた花のように笑った。
クレア様の心象風景はそれからもいくつか場面を変えて続いた。
フランソワ家の屋敷に戻ってワガママの限りを尽くすようになった幼少期。
学院の幼稚舎に入学してからも、やはり取り巻きを連れての悪逆非道っぷり。
初等部、中等部とクレア様は思うがままに振る舞った。
でも、その心象風景はどことなく色彩が足りなかった。
クレア様はワガママ放題をしていても、ふとした瞬間に退屈そうな表情を見せた。
沢山の友人に囲まれているのに、どこか寂しそうで。
私はそれを見ていることしか出来なくて、歯がゆい思いをしていた。
そして、学院高等部の入学式があった朝を迎える。
本来であれば、私たちが出会った朝――そこで、心象世界に亀裂が入った。
亀裂は最初細かなヒビのようなものだったが、徐々に世界を侵食するように広がっていく。
私はそれをなすすべもなく見守っているしかなかった。
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