259.忘却
「だ、誰って……。マナリア様、冗談ですよね?」
私は乾いた笑いを浮かべながらマナリア様に問うた。
だって、マナリア様がクレア様のことを忘れるわけがない。
彼女に取ってクレア様は大事な……大事な……?
「冗談も何も、本当に分からないんだ。というより、目が覚めて最初に出てくる名前が、リリィでもボクでもなくて別の女性なのかい?」
「あ……えっと……」
「まあいいさ。それで? そのクレアっていうのは誰だい?」
クレア様は……クレア様は……。
「誰でしょう……?」
まるで言い慣れた慣用句のように口に馴染むこの名前。
さっきまで意味が頭に結ばれていたのに、今は雲散霧消してしまっている。
確か……確か大切な名前だったのに。
「思い出せないのかい?」
「はい。でも、確かとても大切な人の名前だった気がするんです」
「妬けるね。ボクでもそうなんだから、リリィが聞いたらきっと大変だよ。彼女の前では口にしない方がいい」
「なぜですか?」
どうしてリリィ様の前だと大変なのだろう。
「……本当に大丈夫かい、レイ? リリィはキミの恋人じゃないか」
マナリア様が心配そうに言う。
恋人……?
リリィ様が?
そうだっただろうか。
「リリィ様と私が、ですか?」
「……重症だね。気持ちが落ち着くまで、リリィはまだ会わせない方がいいのかな。こんなレイを見たらきっと、取り乱しそうだ」
マナリア様は重ねて心配げな様子を見せた。
「マナリア様、リリィ様と私の馴れそめはご存知ですか?」
「もちろんさ。散々聞かされたし、キミたちの恋は有名な話じゃないか。そうだろう、革命の乙女?」
革命の乙女――その単語には聞き覚えがある。
「ちょっとまだ記憶が曖昧なので、説明して頂いてもいいですか?」
「もちろんだよ。恋敵の話をするのは少し癪だけどね」
マナリア様は少しおどけてから、リリィ様と私の馴れそめについて話してくれた。
私はそれをまるで他人についての話のように聞いた。
私はバウアーの王立学院に通う平民で、貴族と平民の間に存在する貧富の差について問題意識を持っていたそうだ。
富の再配分について考えていく中で精霊教会の活動を参考にしようとし、その中でリリィ様と出会った。
リリィ様と私は同じ同性愛者ということもあってすぐに意気投合し、行動を共にするようになる。
王宮が抱える秘密の一つ、ユー様の性別問題を解決する中で仲を深めて行き、その後は故ロセイユ陛下の命を受けて不正貴族の摘発に乗り出した。
私たちは大物貴族であるドル=フランソワ様から密かに協力を取り付け、数々の不正を暴き、やがてサッサル火山の噴火後に起きた革命に身を投じることになる。
革命の際にリリィ様が命の危険にさらされる場面もあったが、二人でそれを乗り越え、ついに結ばれるに至った……というのが、事のあらましだそうだ。
「思い出したかい?」
「え、ええ……」
確かにそうだ。
私の中にもその記憶はあった。
でも、その記憶は何故か、自分のものとして感じられない。
まるで誰かに押しつけられたかのような違和感がある。
「リリィに会う前にはちゃんとしておくれよ? そうでないと、またあの子が泣くことになるからね」
「心配なさってるんですね」
「そりゃそうさ。彼女はボクの妹みたいな子だからね」
マナリア様は慈しむように微笑んだ。
マナリア様の……妹……。
――お姉様……!
何かが脳裏をよぎった。
でも、それは掴もうとすると幻のように消えてしまった。
何だろう。
何かが……おかしい。
「まあ、忘れたなら忘れたで、ボクにもチャンスが生まれるわけだから、あながち悪い話でもないんだけど――」
「そ、そんなことは許しませんからね!?」
「ほら来た」
いつもの調子で私を口説こうとするマナリア様を遮ったのは、我が愛しのリリィ様だった。
私を見ると、じわじわ涙腺に涙を浮かべて、
「れ、レイさーん! 心配しましたー!」
「げふぅ!?」
ベッドの上の私に突っ込んで抱きついてきた。
そのまま見かけによらない馬鹿力で抱きしめられる。
「リリィ様、ギブ、ギブです」
「ぎ、ギブ? ああ、下さいって意味でしたっけ。も、もう……こんな日が高い内から欲しいだなんて……。で、でも、リリィはそんなレイさんが――」
「こらこら、真っ昼間からしかも人前で何を始めようとしてるんだキミたちは」
「ま、マナリア様、空気読んで下さいよぅ……」
「空気を読んだから止めたんだけどね。そのままだとレイが窒息するよ?」
「あ、え? わわわ!? ごめんなさい、レイさん!」
「はふぅ……。死ぬかと思った……」
ようやく息が出来るようになって、私はあえぐように空気を求めた。
「うぅ……リリィはまたやってしまいました」
「いつものことじゃないですか。気にしてませんよ」
「うぅ……」
「ほら、来て下さい」
私はいつものようにリリィ様を抱き寄せると、柔らかくその小さな身体を抱きしめた。
「心配掛けて申し訳ありませんでした。おはようございます、リリィ様」
「ほ、本当に心配したんですからね! 目覚めて下さって良かったです……」
リリィ様は私の胸に顔を埋めると、そのまま少しの間ぐずった。
「おーお、見せつけてくれるね」
「別に見てなくてもいいんですよ、マナリア様」
「そうは言ってもね。この後のことを色々話さないといけないし」
「この後のこと?」
「そうさ。祝賀会のこととかね」
「そ、そうです! レイさんが目覚めたので、ようやくそれが出来ます!」
マナリア様の言葉にリリィ様もぱっと表情を輝かせた。
「祝賀会って?」
「三大魔公討伐記念の祝賀会さ。ボクらは英雄扱いらしいよ、レイ」
「り、リリィやメイちゃん、アレアちゃんもです」
「ああ」
そういえばそうだった。
私たちは魔族たちの王、三大魔公と戦ったんだった。
人類と魔族との長い長い戦いに、ようやく終止符が打たれたんだっけ。
「レイとリリィは革命の時の功績もあるから、今度のことでダメ押しだね。バウアーの歴史はもちろん、人類史にも名前が残ることは確実だよ」
「私はどうでもいいですけれど、リリィ様が評価されるのは嬉しいです」
「れ、レイさん……!」
リリィ様は恥ずかしがって顔を伏せてしまった。
可愛いなあ。
可愛いんだけど……なんだろう、この物足りなさは。
「メイとアレアはどこに?」
私が尋ねると、
「ふ、二人もかなり長く眠っていたんですけれど、つい二週間ほど前に目を覚ましました」
「連れて来てないのかい?」
「よ、幼稚舎が再開されましたから。レイさんのことは心配でしたけれど、心配してばかりもいられませんでしたし」
時間は容赦無く流れていくものだ。
そこに生きる人々の思惑など無視して。
日々の生活を送るには、ある程度の妥協や諦めが必要になる。
「お、怒っていらっしゃいますか……?」
リリィ様がおずおずと聞いてきた。
私は苦笑して、
「そんなわけないじゃないですか。眠っている間、家庭を守って下さってありがとうございます」
忘れてはいけないことを、忘れなければいい。
彼女はそれを守ってくれた。
私はまたリリィ様を抱きしめると、その額に口づけを落とした。
しかし、
「むー……」
リリィ様は不満げなご様子。
「ど、どうしました?」
「ど、どうしておでこなんですか? い、いつも見たいに唇にして下さいよぅ……」
リリィ様が拗ねた。
そんなところも可愛らしい。
私は改めてリリィ様に口づけしようと顔を寄せた。
桜色の唇に目が吸い寄せられる。
でも――。
「ごめんなさい。まだちょっと本調子ではないようなので、もう少し休ませて貰っていいですか?」
私の口から出たのは、そんなセリフだった。
「あ……ごめんなさい。どうぞどうぞ、休んで下さい。ほ、ほら、マナリア様も行きますよ!」
「はいはい。それじゃあ、レイ。後のことは治療院の者に任せるね。祝賀会の日程が決まったら、知らせに来るよ」
「お願いします」
リリィ様に背中を押されて、マナリア様たちは部屋を出て行った。
部屋の中が途端に静かになる。
身体を横たえて、布団を被った。
「そっか……色々終わったんだ」
三大魔公を倒して、魔族との戦いが終わった。
帝国の侵略外交も方向転換させたし、世界はこれで随分平和になるだろう。
祝賀会やらなんやらは面倒くさいが、後はリリィ様やメイ、アレアと一緒に帰るという約束を果たすだけだ。
――レイ、今度こそ、あなたとの約束を果たしますわ。
ふいに誰かの声が脳裏に響いた。
でも、それが誰のものだったのか思い出せない。
「リリィ様のもの、だよね?」
それ以外に私が大事な約束をするとは思えない。
何も疑問の余地はない。
不安もない。
そのはずだった。
なのに――。
「何か、とても大事なことを忘れている気がする」
胸の中にぽっかりと穴が開いてしまったようなそんな感覚を、私はいつまでも拭えないでいた。
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