232.全ての始まり(2)
※クレア=フランソワ(一周目)視点のお話です。
「大橋零です。よろしくお願いします」
日本人らしくお辞儀をしたその子は、わたくしと同じだというプロフィールの年齢よりもずっと若く見えました。
アジア人は実年齢より若く見えると聞いていましたが、彼女は特にそうです。
白衣を着ているというより白衣に着られているような彼女には、あまり研究者らしい感じがありません。
どちらかというと、どこかの会社で普通にOLでもしていそうな雰囲気です。
「チーフのクレア=フランソワです。よろしくお願いしますわ」
「アシスタントチーフのレーネです。よろしくね、零ちゃん」
「はい」
零はあまり表情を変えない女性で、何を考えているのかが分かりづらい人でした。
この辺りは自己表現を尊ぶヨーロッパ人と、謙虚さが美徳の日本人の違いなのかも知れません。
でも、ここで求められるのは性格や人格ではなく能力です。
彼女が多少扱いづらい人物だったとしても、仕事さえしてくれれば何の文句もありません。
「タイムを紹介しますわ。タイム、今日から一緒に仕事をする零ですわ」
「よろしくお願いしますね、零さん」
「……あなたが、世界最高のAI……」
零は何か尊いものを見るような視線をタイムに向けました。
日本人はヨーロッパ人よりも物に魂的なものを感じやすいと言いますが、彼女もその類いでしょうか。
「……残酷なことをしますね」
「え?」
「いえ、なんでも」
わたくしが聞き返しましたが、彼女は言葉を濁して誤魔化しました。
「それで、私は何をすればいいんですか?」
気持ちを切り替えたのか、零はさっそく仕事の質問をしてきました。
やる気がある人は好ましいですわ。
「わたくしたちがすべき最終的な目標は、人類滅亡を未然に防ぐことです。それはお分かりですわね?」
「ええ、多分」
零は温度のない目で私を見て言いました。
「多分?」
「こちらの話です。続けて下さい」
「……いいですわ。最終的な目標はそれだとしても、すぐにどうこう出来るような簡単な問題ではありませんわ。当面は半年以内にそれに資する結果を出すことです」
「なるほど」
「あなたに期待しているのは、あなたの研究分野――魂の量子化でしたわね。それについての研究データをタイムに提供することです」
わたくしは研究データの入力方法について簡単に説明しました。
彼女は優秀なようで、すぐに要領を得たようです。
「分かりました」
「何か質問は?」
「一つ」
「うかがいますわ」
「プロジェクトが目指す人類の存続に、肉体は必要ですか?」
「……は?」
わたくしは最初、零が何を言いたいのか分かりませんでした。
「どういうことですの?」
「魂の量子化が完全に実現出来れば、肉体は必ずしも必要ないと私は考えています」
「???」
わたくしがなおも当惑していると、
「つまりこういうことですね、零。魂を量子に変換してそれを何らかの媒体に保存することが出来れば、肉体という器にこだわる必要はない、と」
「そうです。ありがとう、タイム」
ようやくわたくしにも理解出来ましたが、それはどうなのでしょう。
零の専門である魂の量子化という概念自体は、前世紀からありました。
ただしそれは、飽くまでフィクションの中でのこと。
実際のそれが現実味を帯びてきたのはここ十数年の話で、肉体を捨てるという発想はさらに突飛な物と言わざるを得ません。
「肉体があればこその人間ではありませんの? 完全に量子だけの存在になった人間は、人間と呼べまして?」
「当人が肉体が存在すると認識していれば、それでいいのでは?」
「……仮想世界にアバターを持つような感じかしら?」
「そうです。本人に違和感がなければ、それで問題ないと思います」
そうかしら。
「量子化された魂を保存する媒体だってメンテナンスが必要でしょう? なら、やはりそれを行う物理的な肉体は必要不可欠ですわ」
「人間が行う必要はないと思います。機械がそれを代行すればいいだけの話ではありませんか?」
「……」
わたくしは説得されかかっていました。
彼女の論には一定の説得力があるように思えたのです。
ですが、一方でわたくしはそれに反発する感情を抑えられませんでした。
「この議論はいったんここまでにしましょう。まずは肉体も必要という前提で、データの入力を始めてちょうだい」
「……分かりました」
零は相変わらず無表情でしたが、その顔にはどこか不満げな様子が見て取れました。
それでも、一応、指示には従ってくれるようで、彼女は仕事を始めました。
「彼女、変わってますね」
タイムの元を離れると、わたくしたちの議論を黙って見守っていたレーネが耳打ちしてきました。
「確かに、ちょっと変わっていますわね」
「肉体がなくてもいいなんて。彼女の価値観、ちょっと危なくないですか?」
「ダメですわよね、レーネ。これから一緒に働こうという相手に、初日から苦手意識を持っては」
「それはそうですけど……」
正直、わたくしもレーネと同じ気持ちでしたが、立場上、そう言うわけにもいきません。
肉体など必要ないという考え方は一部のSFではしばしば描かれることではあります。
ですが、それを現実に実行しようと真剣に考えるその心理は、狂気に近い物を感じます。
もっとも、零の目は内心こそ読み取りにくいものの、その光は極めて理性的でした。
彼女の思考が狂気にとらわれているという可能性は低いでしょう。
恐らくあれは彼女なりの信念。
どういう経緯を経たら、そのような信念が醸成されるのかはわたくしには分かりませんが。
「ほら、レーネも仕事しなさいな。化石燃料の再生産についての論文、まだ書き上がっていなかったですわよね?」
「はーい」
わたくしが促すと、レーネも自分のデスクに戻って仕事を始めました。
それを見届けると、わたくしも自分の仕事に取りかかろうとしました。
(人間に肉体は必要か、ですか……)
人工知能を構築する過程で考えたことのあるテーマではありました。
人間の心というものは肉体と深く結びついていて、肉体の感覚なしには高度な人工知能を構築することは不可能なのです。
人間の心を構成している要素の中には、五感に依存するものがたくさんあります。
例えば口を使って食事をしない限り、味覚や食べるという感覚をAIに本当の意味で理解させることは出来ません。
タイムを作ったとき、私は彼女に擬似的な五感を与えました。
純粋にプログラム的なアプローチでは越えられない壁を、わたくしはそうやって越えてきたのです。
そんなわたくしにとって、肉体とは人間に必要不可欠で当たり前のものでした。
しかし零は、人間に肉体など不要であると言っています。
どんな経験と思考をすれば、そのような結論に至るのか。
私は反感とともに、彼女に興味を覚えました。
それに――。
(残酷……? 一体何が……?)
タイムを見て、零は確かにそう言いました。
残酷なことをする、と。
あれは一体、何を意味していたのでしょう。
その後、零を迎えた研究はめざましい進展を見せました。
彼女が提唱した人類を救うその手立て。
それはわたくしにはとても思いつかないものでした。
この研究所に来て、たった四ヶ月で彼女は成し遂げました。
人類存続永劫回帰ループシステム――それは間違いなく、天才の発想だったのです。
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