イロモノビデオ③
――★★★――
「大巡さん、毎度突然すみません!」
「なぁに、お得意様の九十九くんの頼みなら、これぐらいの出張ぐらい気にせんさね」
扉の鍵をガチャガチャさせながら、何とか自分の部屋の開錠を試みる。しかし、不思議とカギは噛み合うことなく、不自然に扉は閉ざされたままだ。引きながら押しながら多少乱暴に扉にアプローチをかけるが、どうにも開く様子はない。
そうなると、部屋の扉を壊し、ただでさえあまりよろしくないムードである管理の不動産会社に更に睨まれることを承知でこじ開けることも考えられるが……その踏ん切りばかりがつかないでいる。たしかにここを壊せば日常への切符を手に入れられるのかもしれないが、そうでもして手に入れた日常が長く続くとも思えない。
ひとまずあれこれ思惑を巡らせ、完全装備の専門家に助けを乞う目を向けてみる。腕を組んでこちらの様子を窺っている彼は、無表情のままドアノブと鍵穴を見つめるばかりである。
……正直、何を考えているのかわからない。このあとの対処方法を考えているのか、あるいは扉を開ける答えを知って、未熟な若人が考えている様を観察しているのか。
この人の考えていることがわかった試しはないが、とりあえず本業以外のことについて「助けてくれ」といって「はいそうですか」と助けてくれるほど甘くないことは知っている。
場所までは示す――それがこの人と俺との間の最低限のルールだ。依頼するならば、その対象の目の前までは案内する……素人に毛が生えた程度の俺でさえ、扉の向こうに禍々しい気が溢れていることがわかるんだ――それが専門家のこの人にわからないはずはないのだろうが――それでも、ルールはルールだ。「察してくれ。そして助けてくれ」はこの人と俺の間では通用しない。
「――っ! 何で開かない!? 今は雨が降って……美里! ユウキ! 中にいるか! いるなら、中から開けてくれ!」
ドンドンと扉を叩きながら叫ぶ。近所の人から見たら変質者か……あるいはパートナーに部屋を追い出された哀れな男にでも映っただろうが、そんなことはどうでもいい。むしろ、後者であってくれた方が気が楽だ。
「美里、ユウキ! いないのか!?」
「…………つくも、さん?」
扉から少し離れたところから、耳慣れた声が聞こえてくる。しかし、その声色は長年一緒に過ごしてきて初めて窺うようなもので――あまり状況が芳しくないことを教えてくれる。
「ユウキ! 美里は、中にいるのか!?」
「えと……あの、中にいるんですが……部屋の中で腰を抜かして、動けなくて、えと……」
「――クソッタレ!! 四の五の言ってられるかよぉっ!」
ドアノブをへし折るような気持ちでこじ開ける。ミシミシという明らかに破損を伴う音を響かせながら、そうしてようやく開錠の兆しが見える。
「おやおや、『愛の力』といったところかい?」
「ユウキ、美里! 今助けに行くからな!」
扉をこじ開け、中に入る。玄関と部屋の間のところで――小学生の奴は困惑したなんとも言えないよくわからない表情をして、そこにいた。
「ユウキ、美里は!」
駆け寄って、今日この部屋にいるはずの彼女の名を聞く。そして、ユウキが指さした先に――
「大丈夫、大丈夫だからね!」
「俺は死ぬ俺は死ぬ俺は死ぬ俺は死ぬ俺は死ぬ……俺は死ぬんだぁっ!」
青白い顔をして腰を抜かしてるおっさんの側で、彼のことを必死に励ます彼女の姿があった。
「新参者のくせに誰の命でも取るようなビッチが、アタイが先に唾をつけた男をとろうとするんじゃないよ!」
「何言ってるんですか! あたしだってプロですから。条件は完全に揃ってる。しっかりと最後までご一緒させて頂いたんですから、『昔の女』は黙っててください!」
「『昔の女』だぁ! ちょっと色目使って、たまたまそこにいただけじゃないの。こいつはあんたのことなんて最初から最後までちゃんと見てもないのに、既成事実だけで持ってこうとするなんて、そんなバカな話があるかって!」
「そういうあなたは毎晩毎晩一緒に寝て、いつでも満足に逝かせてあげられる機会はあったはずなのに、それさえ叶えられてないじゃないですか。根本的に相性が悪いんですよ、あなたと彼。さっさとあたしに渡してあげた方がすぐ逝かせてあげられますよ」
「逝かせてあげるだぁ!? どうせ井戸の方まで引きずりこんで行った後は、行方知れずの生死不明。あんたこそ、本当に男を逝かせる技術があるのか甚だ怪しいもんよ。幾多の男を変死体や事故死体として書類送検させてきたアタイに、『相性が悪い』とはよくも言ってくれるもんよ」
「ご託はいいんです。あたしに見えてるのは、あなたがまだ彼を逝かせてない事実のみ。そして、あたしの方で彼を逝かせる算段は整いました。早く身柄を渡してください。『昔の女』にただただまとわりつかれても、彼にとっても迷惑だと思いますよ!」
「何だと、既成事実作れば誰でも逝かせるビッチのくせに!」
「いつまでも一人の男に依存して、ぬるま湯の中で逝かせてもあげられないメンヘラに言われたくないです!」
そして、俺の部屋の中では、顔が隠れるほど髪の長い女幽霊二人におけるキャットファイトが行われていた。
暴言とも怒声ともわからない絶叫をあげながら、確実に手を出す応酬を繰り広げる二人。そして、その部屋の隅で情けなく震える男と、それを宥める雨の日の彼女。
ベッド以下の家具を騒然とさせながら、二人の幽霊の手は止まらない。共に引き込み、間接技、絞め技を得意としているようで、お互いにポジションをチェンジさせながら、まるでプロレスのごとく本格的な殺人技が繰り返される。お互い数々の人間を葬ってきた実績があるためか、その技のキレや完成度、常人を遙かに超越しているのが素人目にもわかる。
禍々しいオーラを発しながら、二人の怨霊は俺の部屋を荒らす。そして、何故か手斧を握りしめて、部屋の隅で震えている下の階の住人を殺そうという話を戦わせている。
「いやぁ、こうして見ると女というのは実に怖い。君の彼女はちょっとオツムが緩い以外は、震える弱者に手を差し伸べるようなことができる人で素敵じゃないか。女はああいうようにお淑やかじゃないとね、やっぱり」
「冗談とも聞こえないことを言うのはやめてください、大巡さん。……というか、早くこの状況を何とかしてください」
「何とかしたいのは山々だが、どちらも『レジェンド級』の猛者だよ。片方相手ならまだ何とかなり得たかもしれないけど、両方相手にするのは無理だよ、九十九くん。こういった時は、どちらかが勝負を制し、弱ったところにとどめを刺すのがセオリーだね。……個人的には、共倒れしてくれるのが一番良いけど」
「そんな悠長な! 大巡さん、なんとか……」
漁夫の利を言い出した彼の顔を見たとき、正直目を疑った。いつも飄々としてつかみ所のない大巡さんが、顔を引きつらせて、脂汗とも冷や汗とも取れる汗を尋常じゃない速度で流している。
見たことない。
大巡神社の跡取りは、仏教かぶれの神主と知られ、この現代社会の中で神仏習合の流れを汲み、神道にも仏教にも精通している変わり者だ。変わり者であり、性格も難があるが……その腕前は間違いなく、両方からのアプローチができるからこそ、その祓う力と滅する力は凄まじい。その凄まじさは彼が除霊に際して請求する法外な金額にも裏付けられているが、周りのどんな除霊師が腰を抜かすような案件に関しても、彼は飄々とした態度で法外な金額を請求しながら、確実に除霊を成功させてきたはずだ。
その彼が、見たこともない表情をさせて、この光景を眺めている。
「そんなヤバいんですか……」
「片方に関しては前々からの調査通り。片方に関しては呼び出された時からの予想通り。流石に……手に負えんね。正直、今日のところは退散したい気分」
「退散って、そんな……」
「手斧の彼には悪いが、彼の命一つでこの場は治めてもらおう。ミイラ取りがミイラになっていちゃ話にならんし……どの道レジェンド級二体に見初められるような兄ちゃんだ。この先も長くないだろう」
確かに、大巡さんが手に負えないとはっきりと明言する相手に立ち向かうのは不可能だ。些か最近仲が芳しくない下の階の住民の犠牲をもって、自分たちは事なきを得るのが妥当だろう。
しかし、「手に負えない」と言いながらも、大巡さんはこの場に留まり続けている。金をもらった依頼については絶対に放棄しないという彼のプライドか――あるいは、そうは言っても対抗手段があるという彼の自信か……それはわからないが、少なくともこの人が本当に「手に負えなかった」場面を俺は知らない。
目的のためなら手段を選ばないし、良心があるようで良心がないような人だが……ひとまず、何もせずに苦汁ばかりをなめて逃げるようなことを善しとする人ではない。……たぶん。
というか、下手にここらにレジェンド級二体の残留思念が残ろうものなら、次の標的に俺が選ばれる可能性は決して低くない。さすれば、ここで始末しないで次に苦しむのは自分だ。大巡さんがいない状態で対峙しようものなら、瞬殺されるのは己。そんなわかりきった予想が立つ中で、しっぽを振って退散しようというわけにもいかない。しかし、どうにかしようと動いた段階、手始めに自分を標的にして「あの男を殺した方が正当な権利を得る」なんてことも平気で言い始めかねない。そうすれば、下の階の住民の犠牲によって少しばかり延長されるはずの俺の寿命は、すぐにでも断絶してしまう。
さて……どうしたものか。
「い――いい加減にしてよッ!!」
考えあぐねて……というよりある種、怖じ気づいて何もできずにいた中、一つの怒号が――怒号と言うにはあまりに頼りなく、震えて弱々しさすらあったそれは――部屋の中に響き渡った。それに伴い、二人の怨霊は視線も向けずに手だけを止める。
「どっちがイかせるとかイかせないとか、どっちのモノだとかそうじゃないとか、そんなのあなたたちが決められることじゃないよ!」
か細かった怒号の主は、声を重ねるごとに少しずつその勢いを増していく。
「第一、お姉さんたちはもう死んでるんだよ? 生きてる人を取り合おうなんて、本来すっごくおこがましいことなんだよ? 生きてる人は生きてる人の世界を生きてて、死んだ人は死んだ人の世界で暮らさないといけない。本当は生きてる人の世界に死んでる人が関わろうとするのはすごく背伸びをして、わがままを言わせてもらってるだけで、そんなのは生きてる時にどうすることもできなかった不満を今、暴力的にぶつけてる……そんなの卑怯だよ! 最低だよ!」
声は強まり、涙が混ざる。それは、あまりに身勝手に自分の言い分ばかりを述べる先輩たちに腹が立ったから。そして、そう――「風間美里」という一人の女子も、生に焦がれるままにその時間が止まってしまった存在だから。生に焦がれるあまり、自分で「おこがましい」と言ったその行為に甘んじている一人でもあるから。
「……お姉さんたち。好きに、なったんでしょ?」
「「はぁ!? だ、誰がこんな男になんて――」」
「うぅん、好きになったんだよ! いや、そんな人にしか『好きになれなかった』んだよ……。生きてる人は眩しい。眩しくて眩しくて、そんなの、死んだ人が生きてる人の魅力になんて到底叶わないことはわかってる。キラキラ輝いてる人たちに私たちは本能的に近付くことができない。明るくて、人に囲まれてて、元気いっぱいの人たち……そんな人たちには、命枯れてしまった私たちに付け入る隙なんてないもん。日陰の中、独りぼっちで寂しそうにしている人たちなら、辛うじて私たちも近付くことができる。関係を持つことができる。そして……寂しさと切なさ力なさに打ちひしがれてばかりいる私たちは、関係を持ってくれそうな人に縋ってしまう。会いたくて、触れたくて、一緒にいて欲しくて、どこにも行って欲しくなくて、独り占めしたくて……ついつい無理なことを言って、無理なことをしてまで甘えてしまう。最終的に歪んだ気持ちは、生きてたはずのその人を死んでる人の方にまで引き寄せてしまう。興味もなくて好きでもない人になんて、こっちの側に来て欲しいだなんて……思わない、はずだよ?」
所々に嗚咽を交え、まるで自分の境遇をもたしなめるかのように彼女は立ち上がり、語った。溢れる思いは、既に二つの強大な力に脅えるそれではなく、ただ現実を直視しながら説経を垂れている自分の言葉に震えてのもの。
「本当は、お姉さんたちみたいな綺麗な人たちだったら、生きていれば――生きてさえいれば、周りにはいつも人がいっぱいでちやほやされて……きっと私なんて『羨ましいな』って遠巻きに眺めてばっかりだったと思う。ほんの少し人生でボタンを掛け違えて、現世のしがらみから抜け出せなくて、今のような形でしかいられないのは、きっと私が思っている何倍も不本意なことなんだと思う。だから、自暴自棄になって色んな男の人とこんなことをしてるんだよ。でも……どれだけたくさんの人を向こう側に連れて行ったとしても、そんなの何の意味もないんだよ? お姉さんたちが『向こうに行く』って決めなかったら、寂しさを一緒に味わって欲しいって思った男の人たちと、一緒に慰め合ったり励まし合ったりすることもできないんだよ? そんなこと、いつまでも続けても……」
美里はその先の言葉を口にしない。あまりにそれは当たり前で、あまりに残酷であるその先の言葉は、きっとそうは言っても現世からのしがらみを断ち切れていない幽霊の身から発するのは、美里自身もおこがましいことはわかっているだろうから。
「わかったような口を」「聞くなよ小娘」
ギロリとその四つの眼孔全ては美里の方に向けられる。顔を上げた二人の怨霊の顔は美しく――美しいが故に、その憤怒のこもった表情は言い表せないほどの威圧感を携え、息をすることさえ憚られるような緊張感を生み出す。
横で見ている立場ですら、その凄みに足がすくんで動けない。そうであれば、その当事者である美里の受けるモノはその何倍にも及ぶものだろう。
しかし、美里は口を開く。それに動じずに。
「私は、お姉さんたちみたいに強引な手段に訴える力はない。もっと言えば、一緒にいたい誰かを力ずくで連れて行こうなんて度胸もない。でも……気持ちもないのに、それに付き合わせることを許しちゃうのは、それだけは絶対やっちゃいけないことだと思うから!」
そう言って、美里は手斧の男の前に腕を拡げて立ちはだかる。
「お前のような小娘が、アタイたちに敵うと思ってんの?」
「綺麗事を言われて『はい、そうですか』と納得できるなら、元々あたしたちは何人も手にかけてませんよ?」
臨戦態勢。既に殺意は、手斧の男でもお互いの怨霊でもなく、雨の日にしか生きられない一人の幽霊に向いている。か細く、ひとたび本気になれば、一瞬で吹いて飛んでしまうほど儚い存在に。
「たぶん敵いません。でも……『好き』っていう気持ちに嘘つくのを認めるのは、死んでも――たとえこの世界から消えることになっても、絶対、したくないから」
「ガキが世迷い言をほざくんじゃないよ!」
「お望み通りに消えてなくなりなさい!」
「――ッ!? 美里ぉッ!!」
「美里が襲われる」――そう思った時、ようやく声をあげて身体を動かすことができた。何ができるわけでもなかったが、とにかく、俺は美里のことを守りたいと思って身体を動かしたのだけは間違いない。
しかし、おそらくその初動は遅すぎた。間違いなく怨霊たちの矛先が美里に到達するのが先で、俺が間に入ることは不可能だっただろう。思い叶わず、きっと無惨に虐げられる美里のことを横目にする他なかっただろう。
「ずああああああああぁあぁッ!!」
――もう一人の招かれざる客が間に入らなかったならば。
「がああああああああぁあぁッ!! 俺だって、俺だってぇ! おめぇらみてぇなよくわからねぇ連中に殺されてたまるかよぉ! まだ恋愛もしてなけりゃ、仕事だって決まってねぇ! 生きてる俺が、死んでるお前らにどうかされるだけで終わってたまるかよぉ!」
血走った目で叫びながら、一心不乱に手斧を振り回す。そこらにある物は吹っ飛び、壊れ、獣のような言葉にならない声と、物がぶつかり合い壊れる音ばかりが部屋中に響き渡る。
「これは俺の問題だ! おめぇらに殺されるくらいなら、俺からやってやらぁ!」
「人間の分際でアタイたちをどうかできると――っ!?」
やたらめったの太刀筋が怨霊の片方をかすめた時、存外その肌は裂け、血が飛び散る。レジェント級とも言われ、今まで強者であり続けた怨霊に、無職の独り身男が一矢報いた瞬間だった。
「バカな!? ただの人間ごときにこんな力があるはずがないでしょうに。あたしたちには触れることさえできないはずなのに」
向かってくる斧の一撃が通る。その事実が確認できてから、今まで仁王立ちで強気な態度を続けてきた怨霊が、初めて及び腰の姿勢になる。「窮鼠猫を噛む」とはよく言ったものだが、予想外の反撃に怨霊たちは明らかに動揺しているようだ。
「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
形勢逆転。先刻まで震えて小さくなっていた男は、逆に二人の女を追い込んだ。その手斧を獣のように振り回して。
そして、容赦のない一撃は、まず手始めに呪いのビデオから這い出た女を袈裟切りにした。「ぐぇ」だか「ぎゃ」だか蛙を潰したような音が一瞬発せられたかと思うと、青白い身体からそれとはコントラストに真っ赤な血が流れ……しばらく痙攣していた。それが動かなくなったと思うと、今度は少しずつその身体は半透明になり……やがて血しぶきだけをその存在の証として――消えた。
消える前。一撃で仕留めた男の殺意は、長い間自分を苦しめ続けた女の方へ向く。ためらいも迷いもない男の一撃は明確な殺意をもって、先ほどよりも深く怨霊の腕を抉った。抉られた腕からは血が噴き出し、やはりその赤は部屋を斑に染めた。
「こんなはず……こんなはずないのに! アタシがいつだって狩る側であるはずなのに……」
苦悶の表情で切られた腕を押さえて怨霊は後ずさりする。そして、一旦退避と言わんばかりに壁を抜けて逃げようとするが、壁に顔を強く打って逃げられない。「そんなはずは……」という表情で鼻を押さえ、顔面から血をダラダラと流している女からは先ほどの畏怖など微塵も感じられない。既にその姿は屈強で武器を持った男に襲われる女そのものであり……先ほどまでの一方的に嬲り苦しめるはずだった構図は、ものの見事に逆転していた。
「いや……消えるのは、いや……」
初めて脅えた声色を見せた女。そこに容赦なく斧が振り下ろされるが――この一撃は惨めったらしく這い蹲って回避行動を女がとったために、女ではなく、床に斧が刺さるだけで済む。
男は避けられてしまったことなど微塵も関係ないかのごとく、斧を抜いて再び斬りかかろうとしている。
「嘘、アタシが獲物にやられるなんて……嘘よ!」
既に青白い表情を更に蒼白させ、女はこちら――俺と大巡さんがいる方に逃げるように走ってくる。咄嗟のことで、俺はそれを避けることしかできず、大巡さんもまた、身体をかわして女を通らせた。すると女は体中から血を流した状態で玄関から扉を開け、脱兎のごとく外に逃げていった。
「待てやこらぁッ!!」
男は怒声を上げ、その血だらけになった斧を携えて――そのまま女の後を追って外へと走っていった。
そうして、あらゆる物が荒らし壊され、殺人事件でも起こったかの如く血糊が部屋中にまき散らされ……そこにはただ放心した四人と、静寂ばかりが残っていた。
「……って、美里。大丈夫か……? 怪我はないか?」
「うん、大丈夫、だよ」
「本当に大丈夫か? 本当に、無事、なんだな?」
「心配性なつくも。大丈夫だよ。大丈、夫……ふぇ……大、丈夫……うぇええん、こわ、かった、よぉ。わた、し、消されちゃう、かと、思った、よぉ! つくもと、もぅ、一緒に、いられない、って、思った、よぉ……」
「もう心配いらん。俺がちゃんとついてるから。美里のそばに、ちゃんといるから!」
「つくもぉ、つくもぉ!」
抱きしめる。嗚咽を交え、顔中をぐしゃぐしゃにしているだろう彼女を思いきり抱きしめる。
怖かっただろうに。恐ろしかっただろうに。
遠目で見ている俺でさえ震えて足がすくむ相手に、このか弱い幽霊は身一つで立ち向かったんだ。きっとその恐怖たるや、俺が想像し得る範疇で収まる話じゃないだろう。
「頑張ったな、美里。本当に、頑張ったな」
「ごめんなさい! 見ちゃダメだって言われてたビデオ勝手に見てごめんなさい!」
「バカ。そんなの……そんな程度のこと、美里が無事なら気にするもんか」
「許して……くれるの? 怒らないで、くれるの?」
「あぁ。お前が無事でいてくれるだけで、俺には怒る理由なんてない」
「本当……だね……?」
「あぁ、ほんと――」
と言いかけたところで、抱きしめていた手は突然空をかく。
「美、里……?」
「ごめん、つくも。許してもらえたら、私安心できたよ」
「いや、何言ってんだ、お前。お前……嘘だろ、おい?」
半透明になって美里の身体が消えていく。まるでそれは、先ほど袈裟切りにされて消滅した呪いのビデオの女のように。
「えへへ、抱きしめてもらえて、私、すっごく、嬉しかったよ。本当に、涙が、出てくる、くらい」
「出てくるくらいって……お前、泣いて……ってか、抱きしめるくらい、どれだけだってしてやるさ!」
「うぅん、いいよ。私は、抱きしめてもらえれば、それで充分。だって、それ以上は、わがまま、だから」
「ば、バカ言うな! キスより先だってまだしてないだろうが! ハグくらいで満足して……お前、そんなんで行っちまっていいのかよ!?」
「どう、したの、つくも? そんなこと、言われたら、私、期待、しちゃう、じゃない。もう行かないと、いけない、のに」
「冗談だろ? 俺はお前ともっと一緒に居たいのに! お前はもう行っちまって……勝手だよ! 最初はお前の方から押しかけてきたのに!」
「ごめん。でも、時間、だから。仕方、ないから……バイバ――」
「み、美里ぉっ!!」
最後の言葉を言い切らず、美里は俺たちの前から姿を消した。消してしまった。
外は、もうすっかり雨が上がってしまっていた――




