ある晴れた日の夜の花子さん①
学校には七不思議なるものがあり、よくその定番としてあげられるのは「動く理科室の人体模型」や「ある時間に数が変わる階段」、「突然笑う肖像画」などだろう。しかし多くの学校の場合、とりあえず「トイレの花子さん」は欠かせない。
いじめられて自殺した女の子の霊がトイレで佇んでいるらしい。でも寂しくなって、放課後の時間などに一人でトイレに入っていると花子さんが訪ねて来たり、誰もいない個室から花子さんの返事が来たりするらしい。
どういった形であったとしても、花子さんに遭遇すればろくなことにはならない。誰もが一人で心穏やかに排泄活動に勤しみたいのに、花子さんはそんなプライバシーを無視してみんなの元に訪れる。二宮金次郎が走ろうが、音楽室のピアノがひとりでに鳴ろうが、それは誰かのプライバシーを侵害することはないが、彼女は往々にして人のプライベート空間に土足で踏み込んでくる。現代社会においてこれほど質の悪いこともない。
水場は昔から霊を呼び込みやすいなどと言うが、トイレを花子さんの専売特許にしてしまうのはいかがなものだろうか。「トイレの太郎くん」とか「トイレの斉藤さん」とか、最近だったら「トイレの光宙くん」とか「トイレのアリスさん」とかあっても良いかもしれない。しかし、そんな呼称が用いられることはほぼなく、「トイレの花子さん」の名称で定着してしまっている。
ともすればどこかのタイミングで、学校のトイレ関係の商標はTOTOあたりが「花子」で登録してしまったのかもしれない。いずれにせよ、全国の花子さんにとってはいい迷惑である。
さて私――津上真は、たまたま忘れ物をしてしまったことにより、夜の学校に来ている。ちょうど警備員さんが学校から出てくるタイミングに来校することができたので、とりあえず学校の中に入ることはできた。やたらがたいの良い顔なじみの警備員さんからは、
「職員室とかのドアを開けようとしたら警報がなることもあるから、教室から欲しいものだけ取ったら、そのまま学校を出ること。基本的にオートロックだから、鍵とかは気にしなくて良いよ」
と言われている。警備を厳重にしてくれることは何よりだが、なかなか忘れ物を取りに来て警報に脅えるというのも嫌な話だ。
だがまぁ、別にあれこれと学校の中を探検したいわけでもない。明日提出のワークを回収したら、夜の学校とはおさらばだ。
そう思って教室に寄って、帰ろうとした私を猛烈な感覚が襲う。
恥ずかしながら尿意である。
警備員さんがいる内に学校に着かなくてはならないと思って、そういえば家に帰ってからずっと我慢してきたのだった。こういうのは思い出した頃に強烈に向かってくるから質が悪い。
「トイレくらい……いいよね……?」
幸いトイレにはドアの類は存在しない。まさか女子トイレの扉をあけて警報に襲われるなんていうこともあるまい。
夜の学校を少しさまよい、見慣れたマークに吸い込まれるように歩いていく。
トイレに向かうまでは夜の学校に不気味さを覚えていたが、なんだかんだで昨今の学校は自動照明が行き届いている。歩いて向かう先が順々に光っていく様――それは、まるで自分が学校を手に入れたかのような錯覚さえ覚え、爽快ですらあった。
トイレに対峙したところで、ふと足が止まる。
「あれ……?」
トイレの自動照明が点灯しない。センサーの故障かと思って、上の方に手をかざしてみるが、どうやら反応は変わらない。どうせ一人しかいないのだし、思い切ってジャンプなんかして無理矢理反応させてやろうかという気持ちも一瞬芽生えたが、それで下手に警報を鳴らすことになったら洒落にならない。
「ま、まぁ、多少暗いくらいだし。気にしない気にしない!」
と、自ら他のトイレを利用する選択肢を消し去り、私は宵闇のハコの中へと足を進めていった。既に他のトイレを利用しようと思うくらいに、私の膀胱には一刻の猶予も残されてはいなかったのである。
そして、私は慣習的に扉をノックした――
――ここまでがほんの数秒前までの出来事。
「入ってるで」
「あ、すみません」
同い年くらいの女の子の声。どうやら先客がいたようだ。…………ん?
とりあえず、隣をノックしてみる。
「は、入ってるで」
「あぁ、すみません」
一瞬地声の低い声のち、甲高い裏声のような声。どうやらこちらにも先客が…………
「……い、いやいやいや」
夜の学校。
今居るのは一人だけのはず。
だけど返事は二種類。
しかも片方は中年のおっさんが無理に女声を作ってるような声。
「………………」
私の思考は停止した。とりあえず、もう一つ隣の扉をノックして、返事がないままに入り、用を足すことにした。
もう、なんていうか、私の膀胱は私の脳の指令を待たずして、便器に腰掛けることを要求していた。
こんな特異な状況であるが、私の膀胱を圧迫していた黄金水は私の体から勢いよく流れていく。隣に居る存在のことなどお構いなしに、私は安心と信頼のプライベートタイムを満喫していた。
時間にして十数秒。
尿意が消えて、こんなところからさっさとおさらばしたい私の前に、過酷な現実が突きつけられる。
「紙が…………ない……?」
残酷である。まさか自分がこんなド定番な状況に追い込まれるなんて、学校に忘れ物を取りに入ったときには考えもしなかった。
「嘘でしょ……?」
小さく呟いてみるが、紙らしいものは周りにはない。こんな状況じゃなければ個室を出て紙を探す旅に出るところだが、如何せんそれをよしとしてくれるような状況ではない。ポケットティッシュの一つも持ち歩いていない自らの女子力の低さをこの時ほど呪ったことはない。
隣の個室には得体の知れない中年男性がいるかもしれない。その隣には、こんな時間に学校で用を足す関西弁の女の子。
女の子は何だ? あれか? トイレの花子さんか?
よしんば花子さんじゃなくても、こんな夜更けに学校のトイレで用を足すなんて普通の人間とは思えない。ってか、ここ関西じゃないのに普通に関西弁で返してきたし。
ま、まぁ、女の子は究極いい。全くもって普通とは思えないが、花子さんと決めつけるのは早計だし、私と同じように忘れ物を取りに来て、急に襲ってきた尿意ないし便意に耐えきれずにトイレにこもったら、思いの外時間ばかりが過ぎていた類の女の子なのかもしれない。むしろ、非科学的なアプローチをしないのであれば、そう考える方が余程自然である。
しかし、隣の中年。こいつはダメだろう。ここは女子トイレだぞ。女子トイレに――しかも若い女の子が入ってる隣で――何でおっさんが入ってるの? オカルト抜きに普通に怖いわ。仮にオカルトでも怖いわ。つまり普通に怖いわ。
盗撮カメラの設置に忍び込んだのか、ただ単純に女子トイレで用を足すことに快感を覚える変質者なのか、はたまたおっさんのような声がするだけで美少女なのか……いや、それはない。
本来ならば電気が点かないトイレでそんな得体の知れない連中に遭遇したら叫んで逃げ出しても良かったはずである。しかしながら、私の体は膀胱に支配されてしまっており、一時の羞恥心が勝ってしまったが故に、こんなよくわからない状況に放り出されることとなってしまった。
「………………」
無言の時間が続く。しかし、静寂の中、聞こえてくるのは自分の焦りを含んだ息づかいのみ。もしかすると、先ほどの二つの声は恐怖心からくる幻聴だったのかもしれない。
自然と私も息を潜める。戸を開けて他の個室に紙を求めるでも、いっそ拭くものを拭かずして、この奇妙な空間から去ることもできない。隣と更にその隣に得体の知れない存在がいることを考えると……うかつなことはできない。
得体の知れない存在と静寂から、私はふとかつてテレビで見た怪談を思い出す。追い込まれてトイレに逃げ込んだ女子高生が静寂から化け物をやり過ごしたと思った刹那、上を見てその化け物が覗き込んでいるのと顔を合わせてしまう、という話だ。
別に外的要因に追われてトイレに入ったわけでもないので、幽霊などを想定してビクビクしてみるのも変な話だ。だが、私は恐る恐る天井に目を向けてみる。
そこには古い校舎を象徴するような汚い天井が広がるばかりで、幸いにも異形の姿はない。ただただ汚らしい天井を目にして、さっさとここから去ってしまいたい気持ちを強めたばかりである。




