口と酒は女にとって災いの元かもしれない②
で、どのような対処法が流行ったかというと……
「ポマードポマードポマードポマード!!」
突如、新種のカバディでもやっているが如く、小学生が訳のわからない言葉を叫びながら目の前を全力疾走していった。男の子が訳のわからない言葉を半狂乱で叫びながら全力疾走している絵こそ、女の子としてはある種ホラーだよ、などとどうでもいいことを思ったが、見ると数十メートル先から赤いトレンチコートが凄い速さで走ってくる。どうやら男の子を追っているようだ。
大きく腿をあげ、長身を活かして繰り出される伸び伸びとしたストライド。適度に力が抜けていて、それでいて大きく前後に動いている理想的な腕の振り。頭から足先まで誰が見てもわかるほどに一本の軸がしっかりとできており、全くぶれない体幹。そして、その大きな走りから刻まれるとは思えないほど細かなピッチ。
理想的なフォームである。流石に『六秒』の異名の持つだけのことはある。
血走った目で「ポマードポマード」連呼しながら狂ったように前を走っていった小学生と比較すると、そのフォームの完璧さがよくわかる。今、この状態で彼女が「あたし、キレイ?」などと言うならば、おそらく誰もが「美しい」と声を揃えるだろう。またいつものように「これでもぉおおおおおお!」と言って小学生を追い回しているのかも知れないが……おそらくそこらにいるどんな女性のフォームよりも、彼女には今「美しい」という言葉が相応しいだろう。
……とその光景に、にわかに感動してしまったが、おそらくそんな場合ではない。このままでは小学生は彼女に追いつかれ、何かよくわからないイケナイことをされてしまう!
「……ま、待ちなしゃいっ」
勇気を出して声を上げてみたが、全然響かない上に噛んでしまった。もうこれは勇敢な女性ではなく、ただの恥ずかしい女子である。
恥ずかしくて顔が真っ赤になりそうだったが――というかおそらくなったが――私は更に勇気を出して、身体で彼女を止めることにした。
時速約60km……なぁに、今の私に失うものなど何もない。法定速度マックスで走ってくる車を生身で止めるようなものだが、こんなバター女には彼氏もいなければ家族もいない。………………いや、訂正。家族はいる。お父さんとお母さんとお姉ちゃん。
だが、家族がなんだ。このまま賞味期限切れを待つよりは、使ってもらえることで何かしようじゃないか。確かに私は料理では使えないかもしれないが……潤滑油や整髪料、医療品としてのバター元来の役目は果たせるかもしれない。
「早く逃げなさい!」
と言ってみるが、おそらく私の小さな声が聞こえる耳も余裕も、必死に逃げている小学生にはなかったことだろう。……でもいいんだ。言ってみたかったんだ、この台詞。
「止まれ、この口裂け女ぁあ!!」
私は全身で彼女を止めにかかる…………わけではなく、精一杯足だけを伸ばした。だってそりゃ、車が向かってきているのと同じなんだぞ。快速で走ってる車に全身で当たりに行くなんてこと、自殺志願者でもなければできるはずもない。足が引っかかったら止まるでしょう、人間ですし。仮に引っかからずに跨いでかれちゃったら……そりゃ、仕方ないよね。人間ですし。
三十、二十、十………………
気持ちの整理をする間もなく、高らかな足音と共に「美しい」彼女は向かってくる。
何だろう、これ。不思議な感覚だ。ポマードの声がゆっくりと聞こえ、足音が随分間延びして聞こえる。それなのに、めまぐるしい速さで過去の思い出が駆けめぐっている。
ああ、これが噂に聞く走馬燈か! 本当に視界は全部ゆっくりになって、過去の思い出が流れるんだと感心している私がいる。
………………ん? 待てよ? 何故私は走馬燈なんぞを見ている。あれは死ぬ瞬間に見るものではないのか?
おっかしいなぁ、と思いながら冷静に考え直してみる。果たして今、自分が何をしようとして、どうなろうとしているのか。
びゅんびゅん走ってる車に当たったら、私の足が吹き飛び、私の身体が吹き飛び………………私はもしかしたら結構高いところから落ちるかもしれないのではないだろうか。……いやはや、私は轢かれることしか考えてなかったが、ともすれば跳ねられる可能性もあるのか。いやぁ、想定外だった。軽率軽率。
足を出してたら死ぬかもしれない。そうだ、足を引っ込めようと思ったが、どうにも足が動いてくれない。…………おいおい、このまま出しっぱだったら、私死ぬかもしれんぜ、勘弁してくれよ。
などと思ってみるが、足は動かない。もう目前まで口裂け女は迫っている。
「………………あ、死んだかも」
情けない声が出たか出ないかぐらいで、私は彼女と衝突した――
「………………はっ……私……生き、てる……?」
目を開くと、映るのは空。一瞬気を失い、どうやら仰向けに倒れているようだ。
「………………っ」
立ち上がろうとするが、身体が思うように動かない。特に足なんてまるでダメだ。
「………………嘘でしょ……?」
よせば良いのに視線を足に移してみると、キレイに直角になっていた。残念なことに、絶対に曲がっちゃいけない方向に。おそらく、直接出した方の足だ。 だが、かといってもう一方の足が無事というわけでも勿論なく、こちらもこちらで見たことがない捻れ方をしていた。
上半身は下半身よりも酷くなかったが、それでも痛々しい有様だ。おそらく右腕は脱臼したのか骨折したのか、動きそうにない。左腕は辛うじて動くようだが、ほんの少し動かすたびに激痛が走ってくる。
そりゃ、動けないと思ったね。これで動けたらそれこそ都市伝説に認定されるビジュアルだよ。
幸いにも首はさほど痛めてないらしかったので――と言っても酷く寝違えた時のような感覚があったが――とりあえず動かしてみた。すると、自分は三、四メートルほど元の場所から移動していることがわかる。どうやら跳ねられたらしい。
そしてその事を知る過程で、私は発見してしまった。道の真ん中で、
「一点倒立っていうのかな、あれ……?」
顔面のみを接地して、地面に対して垂直になっている彼女を。
おそらく私が足を引っかけたことによって、彼女は私を跳ねた後、バランスを崩して顔面から地面に突っ込んでいったのだろう。そして、慣性の法則よろしく前に進み続けたみたいだが……どういうわけか顔面を引きずりながら進んでいってしまったらしい。凄惨たる彼女の血の跡が、道路に十メートル弱の赤線となってべったりと残っている。
まるでマンガのギャグシーンの一幕を見ているようだが――内実はたぶん、悲惨極まりないものだろう。随分な量の血が道路にこびり付いてる上、あれだけの速度で突っ込んでいったという事実を考えると……どう控えめに見積もっても顔面は潰れている。生きてようが死んでようが、その口が元から裂けていたのかどうかを判断することさえ難しいほどにぐちゃぐちゃになっていることだろう。
悪いことをしたとは思わないが、流石に同情する。一応口が裂けててもマスクさえすれば人間の顔だったろうに、全部が潰れてしまっては……。
なんて思いながら、私の意識は再び薄れていく。もしかしたら内蔵がやられてて、死ぬのかもしれない。
「やらかしたなぁ……」
とかなんとか混濁する意識の中で呟いていたそのとき、なんとなく、一点倒立している彼女が動いたような気がしたが………………確認することもできないまま、結局私の意識は再びブラックアウトしてしまった。




